イラスト・ノート

イラスト描き、山田唄の制作物を載せて行きます

「戦鬼”不知火”」

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■戦鬼「不知火」

 こんにちは。今日の一枚は、先日の「戦鬼”呉羽”」の評判が比較的良かったことを受け、同様の題材でデザインコンセプトを変えて出力したもの。「呉羽」も鎧をベースに形を作っていきましたが、今回はより甲冑の形状を分かり易く取り込みました。結果、面白いキャラデザが出たのではと思います。

 先日うえそば様に「いろんな色を使えば化けるのでは」というご意見を頂いてから、極力三色以上で、また原色だけではなく中間色も使って配色を行うように心がけていますが、それがある程度効果を見始めていると言っていいかなと思います。

 あとは、単純にディテールの作り方(立体の追い方)が向上しましたね。大分良いモノが描けるようになってきたかなと自己診断しております。

 

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■落書き

 

 さて、今回は絵とは直接関係ない所で考えていた話をもやもやっとしようと思うのですが。

 noteにて新しく見つけた方が「自分は”イラストならばこう描かなければいけない”という言葉に推されて”イラスト”を描こうとしてきたが、実際に自分が描きたかったものとは”絵”だったのだと思う」というような記事を書いていらっしゃいました。これは、昨今特に懸念すべき問題をはらんでいる気がします。

 

 例えば、各々好きな色があるとして、その「色」には元々名前がありません。ぼんやりとしたイメージの中の色、或いは過去何かで見た色だったか、とにかくその色は、無限のグラデーションを持つ自然界の色の中で唯一のモノであり、本来他の誰かと共有可能なモノではないはずです。

 しかし人は、好きや嫌いを分かち合いたいと思う生き物なので、それにわざわざ「青」「赤」「黄」という名前をつけました。

 すると、その色はもともとは何色でもなかったのにそれら青、赤、黄という名で呼ばれるようになり、次第に青という色を言えばみんなが同じ色を思い浮かべるようになります。

 

 しかし、どうでしょうか。例えば同じ青が好きな者同士であっても、それぞれが「自分の好きな青」だと思っているその色は、互いに少しずつ違っているのではないでしょうか。

 また、私は青が好きだけれどあの人は緑が好きだから価値観が合わない、と思っていても、例えば自分が好きな青は緑寄りの青だったり、その人が好きな緑は青寄りの緑かもしれません。

 それでも本当に同じ青が好きで、青と緑だから意見が合わないと言えるのでしょうか。

 

 この話を冒頭のnote記事の方に照らしてみると、随分危うい事情が見えてきます。

 つまり、世の中の絵描きは「イラストを描く」、殊「イラストの上達を図る」という事を考えた時、皆同じような方法を思い描く。模写をして、デッサンをして、みんなが褒めていたあの参考書を読んで、みんなが褒めていたあの動画を見て。

 結果、ほとんどの人が同じような絵を描くようになっていきます。これは本当に意義がある事なのでしょうか。

 元々私達には個々に皆違う「世界の見え方」が与えられていて、その視界を基に描く「絵」は当然皆違うものであったはずです。それが、「この見方は悪い」「この見方が正解だ」という言葉に左右されて、次第に同じ視界しか見られなくなっていく。

 皆同じ「青」しか好きじゃない世界なんて、つまらないと思いませんか。

 

 

 という事を最近もやっと考えていたのでした。かくいう私も今までネットでは様々な提言をして来ましたし、自分でも人様の提言を面白く拝読することは多々あります。

 ただ、人の思想や価値観にはグラデーションがあり、オンオフの二極で割り切れるものではない、という事は覚えておくべきでないかと思いますね。

 

 ではまた次回。