イラスト・ノート

イラスト描き、山田唄の制作物を載せて行きます

「戦装:猩々」

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■戦装:猩々

 こんばんは。今日の一枚目は前回から始まった「戦装」シリーズ。今回は猩々(ゴリラ)という形でモチーフを組み立てました。あまり「ゴリラ」っぽい特徴を出せたとは言えず、全体的に中途半端で詰め切れていない感じが強いキャラデザになったなと思います。

 とはいえ一定のクオリティは保たれていると言え、シリーズ二作目として悪くない出来です。

 多少ゴリラっぽい要素として、胸板か頭部あたりに分かり易い意匠を組み込めばよかったかなと思いますが、いずれも少女らしいシルエットを損ねる気がするので取り辞めた形になります。シルエット上の特徴がつけづらいモチーフは取り扱いも難しいですね。

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■落書き

 

 さて、恒例の徹夜中です。作業ノルマは終えてしまったので、今から晩酌でもするつもり。

 

 前回書いたことの続きですが。最近もやもやと、絵を描くという事について俯瞰して考えていました。

 何かを図やイラストに表すという行為を行う際に、最も重視されるのはそのモチーフについて「知る」という事だと思います。人物画を描くのであれば、人体やその人物の属する文化圏についての理解を深める。キャラをデザインする際もそれは同じで、基本となるのは解剖学の知識であったりその文化圏に普及しているファッションやモードの理解だったりします。

 人物のほかに、背景として自然物や人工物、動物などを加えていくと、さらに深く広い知識体系が必要になっていく。

 

 逆説的に、絵を描くという事は様々なものの知見に触れるという事ではないかと思います。

 

 一足飛びに結論に行きますが、つまりは私は、私以外の「何か」について知り、学ぶために絵を描いていけばいいのではないかと。

 度々書いているように、私には得意不得意や好き嫌いの概念がほぼありません。それは概ね、自分含む世の中に対する「興味の無さ」から来ているのだと思う。大体どうでもいいと思っているわけです、自分や他人が成功しようが逆に不幸になろうが、それは世界全体の大きな流れにさほど影響を与えないと思っている。

 

 その姿勢が、今までの自分の絵に特に強く表れていたのでしょう。つまり、自分にも他人にもあらゆるものに関心が無いから、それをあえて掘り下げて考えようとしなかった。表層的な理解だけで何となく描いてきたわけです。それでもそれなりに形になってしまうんですよね、私の場合。

 

 また過去イラストを数点載せてみます。

 

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■過去絵1

 

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■過去絵2

 

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 これらのイラストからも、自分が「現実に属する事物」というものにほとんど関心を払っていないのが伺えます。私にとって最も優先すべきものとは己のイマジネーションであり、その裏付けとなる知識など必要としてこなかった。

 思えばそこが私の最も深刻な弱点足りえるのでしょう。

 

 私はまず、「知りたい」という気持ちを育むところから入る必要があるんだろうなと思います。まずは周囲のものにもっと興味や関心を持って、それに対して真摯に向き合う事。結果それが周囲のものを知るという形で自分の「中身」を形作ってくれる。

 それが「他人を介して自分を知る」という事、「不知の知を探究する」という事なのではないかと思います。

 

 大きく言って、私は評価や技術の為に絵を描くのではなく、ただ「知る」為に描くべき位置にいるのではと思うのですね。

 

 

 正直まだ好奇心が動かないというか、まったく興味が無かった物たちに対していきなり関心を覚えるという所にはいかないのですが、概ね私の取るべき進路が見えてきました。

 次回以降もう少し掘り下げて考えていきたいです。

 

 ではまた次回。