「隠れ家の夜」
■隠れ家の夜
こんにちは。今日の一枚は景観とシチュエーションに振ったもの。ある程度ストーリー性のある構想として、「廃墟を隠れ家と称し通い詰めている少女」くらいのコンセプトから膨らませました。今回も景観の元ネタは近所で見た景色です。
ある程度面白い画面は作れている気がしますね。特に今回、廃墟や電柱の質感まで描写するためにタッチを描き入れてみましたが、それが画面の情報量を高める役割を果たしており、今まで副次的な要素に過ぎなかった背景にも主役級の意味を与えているように思います。
また、今回課題であった落ち影に特に気を使って描画してみましたが、やはりこうした基本的なことを一つ一つ精査するだけでもクオリティは上がるのだなと言う感想。
■落書き
さて、昨日は久々に気持ちが落ち込んでおり、こちらでもみっともない所をお見せしました。
描いても描いても承認がもらえないという状況はどれだけ継続しても精神に来ます。もちろん夕橙様をはじめ、今も付き合いが続いている数十名の方からは変わらず反応を頂けているものの、どうしてもそれだけでは満足できない時がある。まあとは言っても初めからないものをねだってもどうしようもないわけですが。
これだけ後天的な承認を欲する理由は、おそらく私の自己承認の基軸が多くの現代人と同じく「自分」に無いからなのだろうなと思います。他人に承認して貰わなければ自己評価すら保てない。こうした形質を形成するのは、今日まで続く学校教育の体形に理由があるからなのでしょうけれど。
テストや通知表という形でひたすら「外部からの承認」によって「順位付け」を行い、またその中で競い合わせる形で個々の能力を底上げする。そうして社会に出ても似たような外部からの順位付けを頼りに努力を継続できる人間を育てる。
そこまでは、少なくとも今までは上手くいっていたのでしょう。しかし現代は「ネット」上で、仕事や学業だけではなく趣味や生活の領域にまで「評価」が付く時代です。
結果として我々は、一つ一つの、本来順位付けすべきでない事柄に関しても外部から評価をもらわなければ継続できない、非常に脆弱な競争観念を持つに至ったわけです。
まあつまりは、ネット上の「イイネ」や誉め言葉がなければ何事も続かない人間ばかりになってきているわけですね。私も例にもれず、ネットの評価にいちいち動じて自分の指針すら自分では決められない弱い人間になり果てています。
最近よく言われることですが、ある程度のスルースキルと自分勝手力と言われる自分を突き通す精神力が必要な世の中になってきているのでしょう。
本来的に私が今やっていることは自分がやりたいと思って始めた事であるわけで、ならばそれだけでいいはずなんですよね。やりたいからやる、誰に評価されなくてもやりたいから続ける。今私はそういうシンプルな承認の形を取り戻すべきなのでしょう。
こういう社会になってきている以上そのような根本解決は難しい気もしますが、まあしかしいい加減定期的に崩れる状況も好ましくないので、なんとか変えていきたいですね。
ではまた次回。