イラスト・ノート

イラスト描き、山田唄の制作物を載せて行きます

「ボード」

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■ボード

 こんにちは。今回の一枚は、構想に苦慮した挙句今まであまり描いたことのない題材に振ったもの。それだけに不慣れな感じが強く出たなと思います。

 特に構図が上手くかみ合っておらず、背景のビル群が唐突に地面から突っ立っているように見える形。もう少しビルの根元の部分に細かい建物や小物などの凹凸をつけてやるだけでも変わった気がします。

 人物の躍動感はよく出ていただけに惜しかったですね。

 

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■落書き

 

 さて、このほどnoteにて、「ツイッターでフォロワーを増やす方法」みたいな記事を読みました。この手の記事は大抵どこかで見聞きしたようなことを反復するのみであったり、極端な精神論を述べるに留まるのでほとんど読まないのですが、この記事はその点実体験をもとにされており比較的具体的な内容についても言及されていました。

 内容をかいつまむと大体「フォロワーさんが描いてほしいと思っているようなものを重点的に描いてフォロワーとイイネ、RTを稼いだ」というような内容でした。

 

 非常に合理的だなと感じたものの、やはりそうして評価されたところで虚しいだけではないかと思ってしまう。イラストをはじめとする創作物において、需要と供給のバランスが絶対であることはある一面の事実であり逃れようのない現実です。需要のないものをいくら制作したところで見てもらえすらしないのは道理である。

 ゆえに、需要に沿って自分を殺して制作できる人は正しいし、賢いのでしょう。好きなものを描いてそれを評価して貰おうなどという思考は、そもそもが無理に過ぎる。

 

 それでも、誰もが描いているような、何千何億という回数描かれたようなアイディアを反復することにどうしても意味を見出せない。自分がそういうものを描いて評価を得たところで、その評価は本当に自分の物なのだろうか。何千何億という先人に送られた評価を自分のものだと思い込んでいるに他ならないのではないだろうか。

 

 むろん、まったく新しいアイディアなどこの後世において生まれえないでしょうけれど、それでも「自分のアイディアだ」と強く言えないものを堂々と世に出すなど私にはできない。そうして形だけの人気者になることに一片の意味も見出せない。

 私が評価を得るためだけの絵に没していくことは、今までの自分に対する冒涜だと思うわけです。

 まあ結局はそうした考えから抜け出せないので、私はこれからも今まで通りに描いていくのでしょう。それに死ぬまで意味が生じなかったとしても、自分を曲げるよりはよほどマシだと思う。

 

 ではまた次回。