イラスト・ノート

イラスト描き、山田唄の制作物を載せて行きます

「イナリ・ミョウジン」

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■イナリ・ミョウジン

 こんにちは。今日の一枚も基本立ち絵。前回の「独眼双竜」の反省を受け、ある程度練り込んでから出力しました。結果キャラ部分は比較的良い物が出来たかなという感想ですね。

 特にアングルとキャラデザインが上手くハマっており、炎の尻尾というアイディアも綺麗に決まった気が致します。問題は背景ですね。こちらはかなりおざなりな物に成ってしまっている感。申し訳程度に鳥居のような物を配置したのですが、やはり単純なシルエットだけではかなり厳しいです。

 

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■落書き

 

 

 さて、またちょっとモヤモヤっと考えていたことを書かせて頂こうかと思うのですが。

 

 ツイッターを見ていても非常に惜しいなと言う感想を抱くのが、「完璧主義」が高じて作品がいつまでたっても仕上がらなかったり、同様の理由で「作品」を描く事が出来ず落書きや練習ばかりを繰り返している人が結構な数いらっしゃる事です。

 本気で一枚に挑んで失敗する事が怖くなる。まあ無理もないですし、絵なんて楽しく無ければそもそも意味が無いと思っているので、無理に挑む必要もない気がする。

 

 しかし、個人的に思うのは、本気で一枚を描いて失敗したり凹まされたりする事も含め絵の楽しさであり醍醐味であり、それを知らずに「完璧な一枚を生む」事にばかり固執するのはもったいないなと言う事です。

 

 

 私も、若い頃同じような心境に陥った事はあるのですけれどね。その時はとにかく自分が描いた絵を毎回貶されまくり、「これは落書きですよ」という体で自分を守って居なければ怖くて絵が描けない状態でした。でも、そんな状態で落書きばかり出し続けても当然のように楽しくは無く、むしろ落書きを描く事がどんどん単なる作業のようになる。

 そうなってしまうともう絵に創意工夫も新たな試みも見られなくなり、ただ描いて出す事だけが目的になる。こう言う状態に陥ると、大体が絵が嫌いに成って行きますよね。

 

 練習は本番の為に存在する、という大前提を忘れると、絵の本質的な楽しさを味わう事が出来なくなると思います。例えば部活をやっていて、本番の試合にも出られないのにただただ苦しい練習を繰り返す事は基本として楽しくないでしょう。むしろ試合ばかりやっていたくなるもんじゃないでしょうか。

 絵なら、その「試合ばかりをする」という状態が軽々に叶いますし、そうしたほうが却って得られる経験値は高くなります。そりゃ、本気で描いた絵を貶されたり、大して評価して貰えなかったらしんどい。それでも毎回本番を重ねる事で得られる物は非常に大きい。

 

 「練習の為の練習」には基本、意味がありません。少し勇気を出して、とにかく一枚仕上げた物を出してみて欲しいですね。その一枚を、二枚、三枚とコンスタントに重ねて行けば、自然と恐怖も和らいでいきますし勢いがついて行きます。そのほうが確実に技術が伸びるスピードも上がります。

 そうして本気でやる事が当たり前の状態に自分を持って行ければ、色々と良い効果を生むのではないでしょうか。

 

 友人を見ていてもそれを深く感じるので、奴にも追って似たような話をしておこうと思います。

 ではまた次回。