イラスト・ノート

イラスト描き、山田唄の制作物を載せて行きます

「武神道」と「ソード・エル・マエストロ」

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■武神道

 こんにちは。一日空きました。今日の一枚目は引き続きアグリノーツの世界観で描いたもの。ある程度戦闘中の、切りかかる前の一瞬を切り取った構図としました。

 こちらも比較的評価が伸びた物の、やや意図の曖昧な物となってしまったように思います。まず、鎧武者の視線の方向が対戦相手である少女の方を向いていない。少女のポージングも構えとは言い難く、また背景や少女の足元の手すりが世界観をよく分からないモノにしています。全体的に統一感が足りず、意図を曖昧にしているのかなと。

 

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■ソード・エル・マエストロ

 こちらも比較的高評価を頂けた一枚です。こちらは先程のイラストとは違い、ごく単純なコンセプトで挑んだために結果表現意図が一本道になり、明確になったかなという印象ですね。描き込みからも迷いの無さが伺え、非常に強い表現となったなと。

 まあこちらは今まで繰り返してきた表現の延長にしかならなかったなと言う感想ですが。

 

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■落書き

 

 昨日は病院に出向いていたため、疲れ切ってこちらの更新をする体力が残りませんでした。

 

 尚、昨日辺りぼんやりツイッターを眺めておりましたら、こんなツイートが流れてきました

 

「芸能人がアートを始めた場合、”私の有り余るエネルギーをあなたにも分けて上げますよ”的な物になりがちだが、本来アートは自らを癒す事しか出来ないものである。人類は七十億種類もいないから、偶に同じ種類の病み方をしている人が引っかかるだけだ」

 

 非常に合理的且客観的に過ぎる見方をされていますし、こうした言い方では納得できる人のほうが少ないだろうなと思った物の、事実だなと思いましたね。

 

 本来的にアートやイラストと言った物は、食物や衣類などの生活必需品に対し、嗜好品と言う位置付けに類するものです。つまり、無くても多くの人は困りはしないし、まして無いからといって死ぬ人などいない。生活を守る為では無く少しでも潤す為に存在しているものですよね。

 そして、その効果とは多くの場合、ツイートの方が仰る様に自慰的であり、例えば描く人間がいかに壮大なテーマや巨大な愛情を注ごうとも、その九割は見る人には伝わりません。

 

 見る人がどういうアートの見方をするかと言えば、それは多くの場合「自分にとって」どのような価値を持つか、という見方であり、そしてそれに沿って絵を「解釈」します。この場合において、はっきり言ってしまえば絵に込められた意図など見る側にとってはどうでもいいわけです。

 この考え方に根差したものこそがアートの対極として位置づけられる「イラスト」であり、つまりは「見る側にとっての価値」に全振りしたものであるわけですね。

 

 ネットが普及し、誰もが絵を描き公開出来る時代になったために、イラストとアートの境界は薄れつつありますが、しかし先程述べたような見る側と描く側其々での「アートの価値」の乖離ははっきりと存在し続けています。

 私が思うに、「自分の絵で見る人を幸せにしたい」「自分の絵で見る人を感動させたい」というような曖昧模糊、かつ実現不可能な目標を掲げた上での「アート」は、逆に見る人に寄り添う事が出来なくなり自己満足の代物に成ってしまう事が多いように思いますね。こうしたキラキラしたテーマに憑りつかれてしまう人は存外に多いのですが。

 

 「絵で人を感動させる」ないし「幸せにする」事は不可能ではないものの、その為には相手にとってメリットのある表現を選ばなければいけません。その努力を厭った先に、実現は無いと思いますね。

 

 ではまた次回。