ギアエコーズ
こんにちは。また少し日が空きました。今回もシリーズとしてやった「ギアエコーズ」を一通り載せてみます。立ち絵十二枚、一枚絵二枚、落書き十四枚となります、今回も非常に大量の掲載となりますが、どうぞ。
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■一枚絵1
■一枚絵2
■落書き1
■落書き2
■落書き3
■落書き4
■落書き5
■落書き6
■落書き7
■落書き8
■落書き9
■落書き10
■落書き11
■落書き12
■落書き13
■落書き14
今回のシリーズでは、過去何度も挑んできた「メカ少女」というアプローチを一旦自分の中で噛み砕いて消化する事が主な目的となりました。
結果、メカという題材に関してはかなりケレン味と言うか、自分の描くメカにありがちなファンタジー味が強く出ていますが、前シリーズアグリノーツに比べ立体感をある程度意識して追えるようになったため、絵としての説得力は若干上がったかなと言う手ごたえがあります。
また、キャラの造型に関してもかなりしつこく数を描いてきたため徐々に安定した出力が出るようになってきたなと。特に顔やプロポーションが大分可愛く決まるようになって来たと思います。塗りとしても適切な温度を掴み始めており、少し前に比べて細かく描き込んでいるものの塗りのがさっとした汚れみたいなものは大分緩和されて来たなと。適切に綺麗に塗りこむパターンが見えてきました。
今回で今まで描き溜めて来たものをある程度放出できたので、次回からまたぼちぼち数を減らして地道にお目に掛けて行こうかなと思っております。
さて、また絵と関係ないぼやきですが。
昨晩は思いがけず徹夜でした。ふと自分の人付き合いの仕方についてもやもやと考え始めたら止まらなくなってしまいまして。
人は、大体が誰かに必要とされたい、自分の力で誰かを幸せにしたい、という欲求があるのかな、とぼんやり考えていました。昨今ちょくちょくネットで聴かれるようになった「承認欲求」も、この、誰かに必要とされたい、の「誰か」が「不特定多数」になった結果なのかな、と。人は誰かのためになっている自分を意識する事で、ようやく自尊心を保てるのではないか、と思ったんですね。この理屈で人の愛情と言う物をある程度説明できるかもしれないなと思いました。
例えば親子愛というものは、無私の物と思われがちですが実はこれも「子どもに必要とされている親」と、「親を必要としている子ども」という欲求が利害の上で一致している結果であり、親は「自分は必要とされている」という気持ちから子どもに一見無条件に見える愛情を注げるのではないかなと思いました。子どもに必要とされる、という見返りをちゃんと得ているんじゃないかなと。
そして、より一般的な恋愛とか友愛とか言った物は、基本的に双方が双方を必要としているといういわば共依存によって成り立っているのではと思いました。
私は昔から特定の誰かに対する興味や関心が物凄く低く、それは自分に対しても同様なのですが、それでも誰かに必要とされているという満足感からその「誰か」を「好き」だと言う若干錯覚に似た気持ちを抱く事が良くあります。だから、私が昔から傍に置いたり自ら傍に寄って行くような相手は、私の「あなたに必要とされたい」という気持ちを受け入れてくれる人、です。
これは必要とされたいと言う気持ちが先に立っており、特に「あなた」である必要はないのだと思う。だから私は自分を必要としてくれる相手を数限りなく受け入れて全員に平等に愛情を注ぐことが出来る。
厳密には愛情とは言えず、ただ自分の欲求を満たして自尊心を得ているだけなので、平等に何人にでも尽くす事が出来る訳です。
つまり、私にとっての「好き」と言う感情は「あなたは私の特別です」ではないんですね。
これが自分の致命的にマズイ所ではないかと言う気がしてきました。
昔から私はいろんな人を好きになっては、その人にあれこれ尽くしてとにかく大事にする人間なのですが、恐らくその相手も私に惹かれるにしたがって、「私に必要とされる」事を望み始めるんだと思うんです。相手にとっては「私」が特別であり、また私にとっての「相手」も特別であってほしい、という思いが当然生じるんでしょう。
しかし、私にとってはその相手も何人もいる「大切な人間の内の一人」に過ぎず、また私は基本的に相手に興味や関心を持たないので、そもそもそれほど込み入った期待もしない訳です。私は相手を好きなんですが、相手にも同じ感情を抱いてほしいとは全く思ってない。ただ私が尽くす事を受け入れて喜んでくれれば欲求は満たされます。
その虚ろさが、恐らく相手にも徐々に伝わってしまう。私が必要としているのは「相手が私を必要とする事」であり、相手自身やその愛情を必要としている訳ではない、と解ってしまう訳です。だから、数か月前に恋人が私に対して愛情不足を感じたり、また同様の事を今までも数限りなく繰り返してきたのでしょう。
早い話、私は人を上手に愛する事が出来ない。これは相手を愛すると言う事の途方もないリスクを考えて、最初から相手を愛する事=相手に期待する事を諦めてしまっている為なんだろうなと思います。
大分回りくどい言い方をしましたが、まあなんかそう言う言葉で自分の性質を説明すると本当に腑に落ちたんですよね。同時に、この性質の根深さ、自分の異常さも本当によく解りました。私にはそもそも人を愛する資格など無かったのだ、と。
とは言えこの理屈に則れば、私の他人への感情は親が子に向ける物にかなり近いわけです。無理に高尚な言い方をすればアガペー(隣人愛)と言えるかもしれません。まあそう言う私の表層的な愛情を喜んでくれる人も一定数いまして、私はそういう人たちに対して無私の愛情を注ぐことが最も楽なんですよね。
しかし、相手も私に必要とされたいと言う感情をいつか抱いてしまうので、私が他人と平等な関係を築く事はまず不可能です。相手は私の特別になりたいと思う限り永遠に満たされない訳ですから、私を「恋人」として意識し始めると途端に物足りなくなる。
要するにそう言う事なんだろうなと。
まあそう思ったので、やっぱりこの前書いたように、私が今気に成っている人の事も陰から支え続けるのがお互いの為なんだろうなと思います。
相手が私を必要としてくれて、その相手を必要とするのはちゃんとした別の誰かであれば、永遠に円滑に関係は回る事になりますからね。そうすれば私はその人を失わなくて済む。恋人や夫婦と言う関係にならなくとも、私はそれで満たされたままで居られる。
…っていうクソみたいな結論に至ったんですよ。
自分でも最低だなと思い始めましたが、ホントこれはどうしようもないですね。私の頭を切り開いてこのクソみたいな感情を切除してしまわない限り、何度でも同じような事を繰り返し続けるでしょうし。もういい加減自分の好きになった人が徐々に私に不満を向け始めるのを我慢するのも嫌になってきたんですよ。
っていう語りをこんな所でするわけですが、まあどうなんでしょうね。こんな私でも良いから特別な関係になりたいって人は果たして現れるんでしょうか。現れるとしてもその人自身が正常じゃない気がしますね。私こそが最も異常なんですが。
段々嫌になって来たのでここら辺で。また次回。