「機械天使と義手の少女」と「禍福鳥」
■機械天使と義手の少女
おはようございます。今日は二枚載せてみます。一枚目はリメイク。
■リメイク元(2017年作)
今回も直近のイラストのリメイクでした。今回載せる辺りから、体調の乱れからなのか本格的に絵が酷く成り始めています。今回の一枚も少女のプロポーションが描けていなかったり、色にアクセントが足りなかったり、塗り込みが甘かったりと割と散々ですね。リメイク前のほうが何かと良いなと思われる出来になってしまいました。
■禍福鳥
こちらは色彩的には良いバランスで描けているのですが、そのほかの部分がガタガタです。何よりも目立つのは、右肩と右手、左ひじの構造ですね。今まで繰り返し描く事でそれなりに慣れてきた部位であるのに、酷く歪んでしまっています。ポージングや構成としては面白い物になっていただけに悔しい一枚でした。
■ポーズ模写
さて、先日seiko様が興味深い記事を書いていらしたので、今回も取り上げさせて頂こうかと思います。
社会人向けの美大カリキュラム参加経験記事を取り上げて書かれている記事でした。
その取り上げていらっしゃる記事の内容もとても面白いものでしたので、お時間のある方はぜひご覧になって頂きたいのですが、掻い摘むと「デッサンのカリキュラムに参加したとき、まず”完成させる事を考えずに描け”と言われ、その意味を自ら悟らされるという経験をした」というような内容でした。
その”意味”というのが興味深い部分なのですが、「とにかく観察する」というデッサンの基本を、講師から聴いて学ぶのでなく、自らの手を動かし頭を働かせる中で掴むのがその授業の”意味”だった、というのですね。
記事の文末で筆者様も仰っているのですが、今の時代はとかく「効率」「スピード」優先の世の中です。何もかもがネットを漁ればそれなりに分かってしまう上、通信機器の発達で地球の裏の出来事やお茶の間の出来事までもが玉石混合で垂れ流されている。
その中に有って、時間を使い、自分の頭で熟考し、そして答えを出す、という経験がいかに貴重で贅沢なものであるか。そして、それが美術と言う物の極地なのではないか、というような締めが為されておりました。
これには大変頷かされると共に、私自身解らない事があればまず人に聴く、という主に絵に対する態度を反省させられました。再び文中から取り上げた記述になりますが、「正確な図面」が必用なので在れば写真を撮ってトレースすれば済むわけで、実際多くの現場でその方法が主流となりつつあるのが現代です。では、「なぜ絵を描くのか?」「絵だけではなく、なぜ勉強してまでそのものに対しての理解を深めるのか?」
その意味から考え直すべき所に、私たちは差し掛かっているのだなと。そしてその答えは画一化されるべきものでなく、また情報化されるべきものでもなく、各々が考えて見出すべきものなのだなと。
だからこそ多様な価値観と、それを反映した美術作品が生まれ、その輝きに魅せられたが故に今日世界中の人がアートや美術、イラストに触れるに至っているのだと言う事。限られた人生の時間を何に傾けるか。何に傾けて来たか。それが自分や、自分の表現を左右するのだと言う事。
美術、アートとは表現者自身の生き様である、というのは割かしよく聴かれる訓示ですが、それを的確に考えさせられる記事でした。
私も良い歳になってきたので、自分の残された時間の使い方について考えを巡らせる事が増えてきたのですが、今回特にそれを強く意識させられましたね。改めてこの世界の深淵を覗く気持ちでした。
そんな感じで、また次回。