イラスト・ノート

イラスト描き、山田唄の制作物を載せて行きます

回顧録と絵描きの体力

 おはようございます。あれから少しずつ生産性を落として、一日の絵のノルマに関して特に減らすよう心掛けているのですけれど、それだけでもノルマに鬱屈されていた気持ちが楽になり、徐々に体調が上向いて参りました。また、コメントにも頂いたようにやはりクーラーを使い過ぎていたためのクーラー病の気もあったようで、早晩空調を使わず扇風機だけで過ごすようにしております。

 それらによって、精神的には早速回復の兆しが見え始めております。相談に乗ってくださったお三方に感謝を。

 とりあえず当面は、このまま低空飛行で生活とお絵描きのバランスを取る日々を続けてみようかなと思っております。今回はそんな所で、むかーし描いたイラストを載せながら今の自分の状況を少し客観的に掘り下げてみようかな、と。

 

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■月露

 以前載せたモノクロ漫画の主人公、光臨のチャムからイマジンして描いたものです。大体これがデジ絵を描き始めて二年目の二千十一年七月のもの。

 絵としては下手くそですし、デッサンなどの狂いも顕著ですが、やっぱりなんというか「これを描いてやろう!」という気概というのか、明確な創作意欲と目的意識が絵全体から感じられるように思います。

 

 先日ツイッターで、「絵に必要な”とっておきのこの要素を入れたい”という目的意識はどんなものでもかなりハードルが高くて、それを乗り越えないと良いものにはならない。そこを妥協すると例えば立ち絵のようなものになる」的なツイートが回って参りまして、痛い所を突かれたなと思いました。

 思えば一枚絵を描くことにいつの間にか疲れてしまって、絵としての構成もそこそこに手癖で描ける立ち絵のようなものばかり描いて来てしまったな、と。

 

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■神戦

 これは同年の八月の物。やはり技術的に未熟であるものの、キャラやモンスターの造形、シチュエーションなどの意図がはっきり感じられます。

 

 なぜ一枚絵を描くことに疲れてしまうのか。以前もちらちら記事に書いたりしたと思うのですが、やっぱり絵描きには創作意欲と並んで、創作体力とでも言うべきステータスがあるんじゃないかな、と。絵描きとしての寿命とも言えるかもしれません。

 大体の、小学生から絵を描いていたような人達は、きっとこの寿命が平均して短い。表現したいものに燃えていて、何を描いてもその生み出したものを好きになれる時代、それが少年時代かと思います。そういう時に絵を始めると、爆発的に描く反面、引退も早くなる。恐らくは情熱の切れ目が創作意欲の切れ目になってしまうからです。

 そこを行くと、大人になってから絵を描き始めた&再開したような人は、冷静に自分にとっての絵の価値を測って行く人がほとんどなので、長続きするんじゃないかな、と。

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■禍鳥

 同年同月の物。

 

 そこを行くと、私などは三つ目のタイプで、子どもの頃から絵を描いていたが現在まで続いている、というパターンです。このパターンも決して珍しくはなく、こちらで懇意にさせて頂いている絵描き様の多くはむしろこれに該当されるのではないかと思うのですが。

 そこで、なぜ私たちのようなパターンの人間は長く絵を続けているのか。むしろ、続けて行けるのか、という点を、自分は内々不思議に思っていました。絵なんて描いていると大体にして嬉しい事より辛いことのほうが多いです。描いていて良かった、と思えることもある反面、加齢によって見えてくるものが増えてくると色々創作を続けて行くに不都合な事情も出てくる。

 そこを回避する方法として、私達が身に着けるのが「自分の創作スタイル」なのかなと、先ほどからの話を総合して思いました。

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■蒼月

 同年十月の物。

 

 思うに、「全てのものを完璧に描こう」として知識や技術を収集する時期というものが、結局限られてくるのではないかなと感じるんですよね。あらゆるモチーフと題材と絵柄を使い分けられるよう、アンテナを常に張り、練習も怠らず、且自分の制作の時間も作る。そんなことを続けているから体力も精神力も枯渇するのではないかな、と。

 昔、絵描きは魂を削って絵を生み出すんですよね、などと描かない人から言われたりしましたが、それは大げさであるにせよ、先ほどから繰り返しているように絵描きには寿命がある。それを越えて創作に挑もうとすれば、須らく現実の人生そのものが短いものになってしまう。昔から、何もかも投げ打って絵に没頭してきたような画壇はことごとく短命です。それが幸せかどうかという点はともかく、長生きしたければどこかで自分を労わり労力をセーブするしかない。

 その中で自分が取った方法というのが、先ほど言った「趣向を凝らした絵を描くよりも、立ち絵程度のものを繰り返し生産することで”新しい技術”習得に掛かるエネルギーコストを抑える」という道だったのかな、と。

 

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■紅眼

 同年同月の物。

 

 どんなに理想を語った所で、頑張り続ける、ということが特に自分にとっては無理だった。それが今の所の結論ですよね。

 ここからは想像でしかありませんけれど、多くの絵描き様が辿り着く、「自分にとってベストな表現活動の方法」というのがあるのではないかと思うんです。

 私のように絵に掛かる労力そのものを削ったり、或いは生産性を落として一枚に時間と手間を差し向ける、また或いはメインモチーフを一定の物に固定することで創造性をセーブする。

 特に、子どもの頃から描き続けていると、三十、という年齢が一つの契機になってこの自分のスタイル作りが始まって行くのではないかな、と。

 

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■黒壇

 同年同月の物。

 

 結論として、創作意欲も創作のイメージも、また基本的な体力自体も有限です。ただやみくもに頑張る事が美徳とされてはいるものの、それをやるとどこかで躓く。私は一度病気というやり方で躓きましたが、その二度目をやる間際まで来ていたのかな、と。

 「社会に出るって事は頑張り続ける事だ」とも言われました。しかし、現実的に、今の労働環境で”頑張り続ける”なんてことをやっても、自分の為になるとは思えない。どこかで程々に、息を抜いて。或いは頑張る時と休むときのメリハリをつけて励んで行くしかないのかな、と。

 

 少なくとも自分は、「頑張れ」と言われるとどこまでも頑張ってしまい、最後には壊れてるまでアクセルを踏み続けるような人間であるようです。こちらでは幸いにも「頑張っていたのだし休んでも良いのでは」という形で受け入れて頂けましたが、これから社会に出ようとすればどういう声にさらされるか分からない。

 その時のことを考えて、今から「出来ないことは出来ないと言う、自分にもそう納得させる」という習慣を作って行かなくてはなと思いました。

 

 今回はそんな所で。ブログの更新を一週間に一、二回にすると言いましたけれど、やはり多めに更新してしまうかもしれないですね…適時軌道修正して行きます。ではまた次回。

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