イラスト・ノート

イラスト描き、山田唄の制作物を載せて行きます

「バウン・キャメロット」と次に目指すべき物

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■バウン・キャメロット

 こんばんは。今日の一枚目は若干新しい事をしてみたくて構想した物。下半身を覆う鎧のような二足歩兵に騎乗して戦うサイボーグ少女、みたいな着想から膨らませました。

 説明したい事はそれなりに出来ている気がしますし、デザインとしても悪くは無いかなと。ただ、少女の脚部が二足歩兵内でどのように格納されているかという部分の説明が不足してしまいましたね。それ故になんとなく気持ち悪さが出ているかなと思います。脚は曲げて騎乗している設定で、シルエット的にもそれが正攻法だったと思うのですが(脚を延ばして騎乗した場合少女の腰から下のシルエットが間延びする)、であればある程度脚を曲げている状態を描写するなどすれば良かったです。

 

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■落書き

 

 さて、昨晩は恒例の完徹でした。もうおおよそ大崩れはしなくなって来たとは言え、徹夜状態で一夜過ごすとなかなかに精神に来ることが解っているので、今日はもう無理は控えますかね。日が昇ったら図書館に行ってこようと思います。

 

 …と思っていたのですが、徹夜明けにつらつらと数年前の自分のブログを見返していたら、ある絵描き様を取り上げた記事に目が留まりました。

 

 

 この絵描き様を当時研究しようとして全く及ばなかったようなのですが、なぜあの時この絵描き様に惹かれたか、そして、それが現在にどう繋がっているのかがおおよそ見えた気がしました。要は、今まさに自分はこの絵描き様への研究を再開すべき局面に居る。この絵描き様こそが今の自分にとっての「答え」だったようです。

 

 以下、衝動的にエスキースをとって纏めた内容をなんとか言語化してみます。恐らく徹夜明けのたわ言に近いものになると思われるのでスルー推奨。

 

■arou様の絵に見られる抽象性

 

 この「arou」様の最も大きな特徴と言えるのが、絵の中に度々登場する抽象的なモチーフ群です。もちろんこの絵描き様は表現力がかなり高いので、抽象的と言っても私が日頃描いている物とは違い、質感や量感まで具象化されているのですが、しかしこの方の絵の中に於いて、それらははっきりと「抽象的な」モチーフとして描かれている。

 つまり、そこにこの方の表現したいものがあるのではと思いました。より突き詰めていうなら、arou様は「抽象化」という概念で何か「日常」の中に潜む「非日常」を描き出し、暴こうとしている。しかしその試みは決して非日常を白日にさらす物では無く、非日常はあくまでも非日常のまま暗闇を透かしてみるようなほの暗さを持っている。

 それこそが日常の中に並列して存在する非日常と言う物の在り方を表しており、arou様の描こうとしている物とは個々の「モチーフ」などではなく、世の中の在り様と言う「概念」を更に外側からみたような巨大な世界観なのではと思いました。

 

 それ故にこの方の絵は、底知れない暗さと深さを持って向かい入れられ、しかしその全体は不思議な美しさを持っている。それこそがarou様の認識している「世界」そのものの美しさと暗さ、深さなのでしょう。

 

■自分の絵の抽象性とその認識

 

 私の絵にも抽象性を活かした「モチーフ」が度々登場する訳ですが、それらは今まで、たかだか「腕」の抽象化、「脚」の抽象化、「武器」の抽象化、に留まっていた訳です。どこまで行ってもモチーフの域を出なかったわけですね。私がすべき事とは、その抽象化の枠組みを見直し、拡充する事だったのではないかと。それこそが今日まで私が探し求めていた「答え」なのではないかと思いました。

 

 ざっくり言語化しますと、具象とは光の反射によって網膜にそれと認識されて初めて像を結びます。では抽象はどうか? それらは「現実に存在しない」にも関わらず、網膜に照らし出されたいわば「虚像」なのです。

 鏡の中の世界を考えると解り易いですね。鏡に映っている物は、現実に存在するが故にそこに映し出されますが、それを網膜が捉えた時それらは虚像となる。鏡の中にもう一つの世界が現れる。この虚像の世界こそがarou様の表現する「抽象」の世界なのです。

 

 この場合に於いて、抽象は具象の隣にあるからこそ際立ちます。だからこそarou様は、現実に存在する人と言う具象=モチーフを取り巻く者として抽象=イマジネーションを設定していらっしゃるのでしょう。一見具象と変わらず存在しているかに見える物が、しかし明らかに異質な姿を纏ってそこに「在る」。

 私の表現したい物も恐らくそれなのです。

 

■表現の実現に向けての手取り

 

 まず、抽象を更に際立たせるための具象として、より現実に則した描写力が求められると思われます。その為に私はサブモチーフとして立てる具象の構造や性質を熟知する必要があるでしょうし、それが私の絵に今の所一番足りないものと言い得るでしょう。この場合に於いていうなら人体デッサンですね。

 例えば右腕が抽象化した人物を描く場合、右腕を除く人物全体に説得力がなければ、およそ抽象化した右腕ですら説得力を失い、結果絵として大崩れするでしょう。この時、人物側を必ずしもリアリティにそって表現する必要はないと思う。「現実」ではなく「具象」であれば良いのです。具象とは、多くの人にとって「それが現実である」と認識される現象を差し、つまりコミックタッチの人物であっても具象に耐えうる説得力を持っていれば問題ないと思われます。

 事実、arou様もスーパーリアリティというよりは、どこかデフォルメされた人物像を用いている。

 

 次に私が考えるべき事は、「抽象化」という方法論で「何を」表現するか、という点ですね。メインとなる柱は先程述べたような「現実の裏にある非現実」という形で良いのですが、ではその非現実はどういった意味合いを持つのか、非現実と言う形で何を表現したいのか、という部分をこれから煮詰めていく必要があると思います。

 

 特に後者を実行するために必要な手取りとして、エスキースを練る事が第一条件として挙げられるでしょう。「意味」のある絵を描く為にはそもそもエスキースが不可欠なのですが、これまで私は抽象を抽象として表現すると言う直線的な絵しか描いてこなかったため、その点を含めていませんでした。

 これからはそうはいかない。抽象化という方法論を使って、私は何かを発信していかなければいけない訳です。その「何か」が無ければ、絵はたちまち意義を失い、薄っぺらい落書きに成り果てるでしょう。落書きが悪い訳ではないですが、私はその一歩先の「作品」作りに取り組むべき局面に達しているのでしょうね。

 

 

 …というような事を大まかに考えました。

 いやー…すっきりしましたね。つい十分程前にこの方のアカウントに再度辿り着き、絵を見た瞬間から目の前に扉を開かれるようにここまで書いた事が押し寄せてきました。絵を描いているとこういう展開がザラにあるのが怖いです。

 

 しかし、ようやく先行きが見えてきました。先ほどからブログを打ちながらクロッキー帖にエスキースで描きたい物の全貌を纏め始めているのですが、津波のようにアイディアが出てきます。これは気持ち良い。

 やっと…やっとですね。はー…しんどかったー…。

 

 今日はもう徹夜明けで大した出力が出ないので、作品作りは明日からという事にして、残り時間はエスキースを目一杯詰めてみようと思っております。

 

 ではまた次回。