イラスト・ノート

イラスト描き、山田唄の制作物を載せて行きます

個性という物の扱い

 こんにちは。いよいよ二月も明日までとなりました。ここ数日やや暖かい日が訪れるようになり、日中など春の陽気にぼんやりしてしまってなかなか作業の能率が上がりません。リハビリの際そんなところを職員様に話しましたら、「春眠暁を覚えずだね」と言われ、なるほど上手い言い様だ、と思いました。三月からもこんな調子では困るので、集中力向上の対策を練りたい所です。

 今日は、最近少しもやもやっと考えている所である、「絵における個性」についてちょっとお話させて頂きます。

 

 デザインの分野での個性については、今までも簡単に言及して参りました。繰り返しますと、「ただ個性的なだけのデザインは商業ベースでは使い物にならない。機能性とコンセプトへの追従が必須」。

 そもそも、なぜ絵に於いて「個性」というものがこれほど取りざたされるのかと言えば、個性的な絵をある程度以上のクオリティで描けるイラストレーターというものが特に日本と言う国にあっては驚くほど少ないからです。

 

 少ないと言っても一定数はおられるのですけれどね。それでも絵を描ける人間全体から見れば、実に数パーセントを切ります。

 なぜか。

 単純な話、日本では絵の上手さの基準として「個性」が驚くほど軽く見られているからです。

 

 私自身もピクシブやチナミ等の日本発のイラスト投稿サイトに常連として登録させて頂いておりますが、そちらで人気を得るイラストとは決まって「人気のある絵柄」の「人気のあるモチーフ」をあしらった作品です。

 それの善し悪しはまた別にして、日本人はとかく同じことを繰り返すのが好きな民族であると言えます。これが欧米などに行くと雰囲気はガラッと変って、新しいもの、個性的なものが取り沙汰される。キャラクターに関してはある程度売れ筋があるものの、モンスター、クリーチャーデザインやメカデザインなどに目を向けると、それはもう新しいものが次々と生まれては人気を得ています。

 これはもうお国柄と言うほかない。だからと言って私に日本の国風を批判する気は全くございません。日本は日本で、古くからある良きものを大切にする素晴らしい文化を有していると思っております。

 

 そして、私自身も一人の日本人である所から、どんなに先進的な思想を持とうと根はこの国にあるものだと意識しております。なので、ここからは日本と言う国における個性の扱いについてちょっとだけ語ります。

 

 まず大前提として、「個性」と「絵的な上手さ」とはこの国においては完全に切り離して考えるべき所です。

 それが日本の職人気質であったり武士道に通じる部分かと思うのですが、日本人の考え方の根底にあるのは「創作=職人技」。

 

 つまりは、個性的な仕事、目を見張るような新しい仕事よりも、誠実で実直で均質的なクオリティのほうを重視する、ということです。日本で古くから職人と呼ばれてきたような刀匠や大工のような仕事を観れば分かるように、その根本にある精神は「目立つ」ことではなく、伝統を重視し信用のおける確かな技術で商品を作り上げる「職人技」にあると言えます。

 これ、日本で仕事をする上ではどんな職業に就くにあたってもとても大切なことになるかと思います。

 

 例えば、コンビニ、というシステムが日本にはあります。現在よほどの僻地でない限り、日本のどこへ行っても二十四時間営業のコンビニを観ることが出来ますが、これ、他の国に類を観ません。

 他国では、まず何より治安の問題で、深夜まで営業しているような健全な店は存在できません。そして、コンビニのようなあらゆる商品を取り扱う店としての「商品の安全性」を一定の基準でクリアできないのです。コンビニ弁当一つとっても、白米からおかず、梱包のプラスチック容器一つ一つに至るまで、その安全性を保障できるからこそあれらの商品は店に並びます。そして、消費者側は何の心配も抱くこと無く消費期限や値段にだけ気を遣って商品を買えば良い。

 こんなことは日本以外ではほぼありえないと思います。

 近年こういった商品、特に食品の安全性について、日本でも疑問や問題が持ち上がるケースが増えていますが、もしこのまま商品一つ一つの安全性に消費者の側が気を配らなければならなくなったとして、まずコンビニやレストラン、スーパーなどのチェーンは壊滅するでしょう。

 これと同じことがイラスト産業にも言えるということです。

 

 日本では、イラストは芸術である前に商品です。誰がどんな状況で選択し、購入する場合にも一定の品質の補償がなされているべきもの。この国に於いては芸術に根のあるものですら、消費者一人一人が目で判断するものでは無く、値札に描かれているだけの価値を当たり前に有しているべきものなのです。

 

 イラストの創作的価値には言及せず、あえて商品的価値についてのみ述べましたが、私自身こういった文化には戸惑いながらも隷従するほかないと言った具合です。正直に言ってしまえるなら、私だって個性を前面におした前衛的な作品で売って行きたい。自由に個性的に描いて評価されるのであれば、それほど自分の創造性に誇りを持てる仕事はないでしょう。

 しかし、日本のこの「均質的なクオリティのものを安定して供給できる」という環境の素晴らしさもまた、私は痛いほど理解しています。先ほどのコンビニの例に始まり、ホテルや娯楽施設の環境とサービス、学校施設の均質化と充実化、不動産などの大きな買い物における保障に至るまで、この国に住んでいるからこそ安心して受理できる消費者サイドの待遇というものが驚くほどたくさんあります。

 そんな国で、「イラストだけは芸術として個人の価値観を重視しても良いのではないか」という思いはいささか無理があるもの、と…。

 

 もっとも、現代ではイラストを描いたりインターネットで発表する人間も増え、芸術そのものが商品ではなく表現・コンテンツという位置付けに代わりつつあります。

 今がまさに個性と商品価値のせめぎ合い、価値観の転換期にあると言えるのかもしれません。それだけに今、個性について議論が白熱しているとも考えられます。

 そういう状況で私が個人的に言えることは、「個性を売るための絵なら個性を重視し、品質を保つべき場面ではそうすることが正しい」。何事も適材適所、すべての場合に通じる真理など人間社会には無いのですから、目的に沿った努力をするのが何より大事だと思うんですね。私はデザインと言う柱で生きて行くと決めたときから、絵としての個性は捨てています。それは日本でのイラストレーションの価値観が今のままである限り揺るぎません。それが私のイラストレーターとしてのポリシーです。

 

 

 いつも以上に堅い話になりました。ただ、あまりこういうことは言いたくないですが、最近創作家や評論家と呼ばれるような人の中にもやや勘違いをしているのではないかなと思われる人が時々おられます。私の知っているアーティスト様にも、「芸術は商品にもなる」などと言ってはばからない人が居る。正直、イラストレーターとしての私の矜持と努力を踏みにじられている気がしてしまいます。

 芸術は確かに「財産」にはなります。でも、一定の品質の保証が為されない限り日本では商品には成り得ない。それが今の所の私の絶対の矜持ですね。

 

 若干厳しい口調になってしまい失礼致しました。今回は最後に一枚だけイラストを上げて失礼致します。来月から、少し生産体制を変えて一枚絵をもっと描いて行こうかなと思っておりまして、そこら辺の反省や目標を明日辺り書かせて頂けると良いかなと…。では、また次回。

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