イラスト・ノート

イラスト描き、山田唄の制作物を載せて行きます

「サムライ・ムジカ」と「スノゥ・ガーデンシティ」

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■サムライ・ムジカ

 こんにちは。今回の一枚目も若干凝ったコンセプトで挑んだ物。今回は「サムライ」というコンセプトを一つ決めて、そこからデザインを掘り込んでみました。

 まあそこそこ良い物が出来た気はします。少なくともデザインは相当良い感じかな、と。ただ、例えばパーツ枚のバランス感であるとか、ポージングであるとかの詰めが甘く、結果としてシルエットが急造の物に成っているために、今一つ「突き抜けた」出来とは言えません。練り込みの浅さはやはり、自分の課題ですね。

 

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■落書き

 

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■スノゥ・ガーデンシティ

 経過製作が仕上がりました。結局二日くらいの行程で完成としてしまいましたね。

 まあそれなりに描けているなというのが今回も言える事だと思うのですが、メインとなるビル群の資料を結局ほとんど集めなかったため、説得力と言う意味では弱いなと言う感じです。あと、構図的に最も手前のビルが画面に大きく入り込み過ぎて、バランスとしてやや悪いかもしれませんね。今回は閑散とした寒々しい街並みを表現する狙いがあったので、であれば遠景のビル群をもっと大きく画面に入れても良かったのではないかと。

 

 まあそんなわけで、とりあえず次の経過製作の構想に入っています。今回は割と情景で見せる形だったので、次回はキャラ単体の造型とインパクトで見せる形を意図してみようかなと。

 

 さて、既に冗長ですが、またダラダラ呟きを並べます。

 

 先程、昨年末私の絵に対して「ベクトルと重力を表現していると思う」と評価して下さった方とまたリプのやり取りをしていたのですが、その中で「自分は絵に関してもほぼ”義務”として描いている」と話したところ、「それは”合理的に行動しなければいけない”という制約を自分に架しているからですか?」的な事を言われました。

 まあそれで、なんというか非常に腑に落ちましたね。私の行動原理の一番頂点にあるものは、「合理」なのだと思います。

 

 恐らく私は、論理的思考力の高さから、合理的、且論理的で、その場で最も有効と思われる行為が直感的に理解出来てしまうんでしょう。結果としてその理解に頼り切る事となり、「やりたい事」よりも「やるべき事」を常に優先してきた。

 結果として自分の意思というものが常にないがしろになる状態であり、それが私のストレスの主要因となっているようです。

 

 まあ、これ考え始めるとめちゃくちゃ根が深くて、私が今まで犯してきた失敗や、逆に成功体験に関しても全部に「合理性」が関わってるんですよね。自分が最も信頼し、信仰しているものが「合理」なのだなと解りました。

 

 

 しかしこれ、悪い事とも思えないんですよね。今の所私はその感じで上手くやれていますし、合理的思考の精度も年々上がっていて、失敗や挫折が目に見えて減って来ている。これは自分の短所と言うよりは長所なのではないか、と。

 まあとりあえずまた次回。

「少女は空の海原の夢を見る」

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■少女は空の海原の夢を見る

 こんにちは。今回の一枚目は、久し振りにストーリー性のあるコンセプトを立てて書いたもの。前回の絵がコンセプト的に単調な物に成り過ぎた事を受けて気合いを入れました。

 結果として絵としても面白いものが出来たと思いますし、神秘的で良い、などツイッターでも比較的好評を頂けました。難を言うなら、少女が漫然と突っ立つ構図になっていて、若干要素間の関係が解り辛い点でしょうか。

 

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■落書き

 

 さて、以前からちょこちょこ「山田さんは海外でウケるタイプの絵を描いていると思う」といったご意見を頂いていたのですが、最近つくづく自分の絵は日本人に好かれるタイプの物では無いなという気がしてきたので、先日ArtStationという海外のアート系SNSに登録してみました。

 過去絵をドバっと上げたのですが、六名ほどのユーザ様からフォローを頂き、上げた絵に対しても僅かですが反応が付きました。

 

 しかし、現状の自分のやり方はやはり「数を打ってその物量とバリエーションで勝負する」という形であり、SNSで評価されるためには「一枚」の練り込みがやはり弱い。

 と思ったので、経過製作を復活させる事にしました。

 

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■経過

 

 正確にはこれは経過製作二作目に当るのですが(一作目も折を見て上げます)、今回は廃墟を舞台に、一人稼働し続ける孤独な機械天使、みたいなコンセプトで行く事にしました。今までなかった要素ですが「雪」を降らせてより寒々しい情景にしようと考えています。ゆっくり詰めるつもり。

 

 ではまた次回。

「レイオット・ガンプ」

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■レイオット・ガンプ

 こんにちは。また一日空きました。今日の一枚はいつも通りの物。ほぼ新しい要素も見込んでいませんし、今回特にマズイ点として、コンセプトをあまり掘り下げずに要素やデザインを漫然と配置してしまいました。結果取ってつけたようなものに成って居る感。

 自分の作風と言う物がある程度確立されつつあるために、山田唄カラーとでもいうべき物が出ており実際はさほど散らばった出来とは見えないのですが、この自分の作風の確立に関しても時期として早過ぎる気がします。一旦今まで蓄えてきた武器から離れる発想が要るかもしれません。

 

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■落書き

 

 さて、ちょっとまた絵と直接関係ない話をダラダラ書こうと思うのですが。

 

 ネットをしていると特に苛々させられる要因として、誰かが誰かの事を批判する際、さも「自分は特別だから今回批判される側には含まれていませんよ」と言いたげな文法を用いている場面に出くわす事が挙げられます

 この「自分は特別」という意識は、おおよそ中二病と呼ばれる物に類すると思っていて、その名の通り中学時代の思春期と呼ばれる時期に発症する病みたいなものだと認識しています。

 

 私達の世代は特に、この思春期に「自分は特別なのではないか?」という意識を持ち、その上で様々な事に挑戦する事で自分の限界を悟り、また自分も他の大多数と同じ凡人に過ぎないのだと言う認識を経て大人になる、という過程を踏んで来ました。しかし、現代はどうでしょうか。

 産まれた直後からネットに触れはじめるネット・ネイティブと呼ばれる世代は、早くからSNSなどで自分で発言したり作品を発表し始める為に、我々が体験した思春期の万能感以前に「自分は何者にも成れない」と言う事を認識してしまうのではと思うんです。ネットに触れた時点で自分より優れた同世代など掃いて捨てるほど見つかるわけですからね。

 それが結果として思春期の「大人に向けて一皮むける」という過程を経る機会を奪ってしまい、いつまでも「それでも自分は特別に違いない」という意識を引きずり続ける大人子どもを量産する結果になっているのではないか?と。

 挑戦さえしなければ限界も見えないわけですから、何にも一生懸命になれずにずぶずぶ自分は特別だと言う意識を謳歌し続ける人種を多数生んでいるのではと思うのですね。

 

 まあこれに関しては、私にしてみればまったく人の事は言えません。というか、私の場合実際小学生頃から勉強でも何でもめきめき人の上を行くようになったので、根本的に自分は特別だと言う意識が抜けずに大人になりました。結果、今も自分は天才だと思っています。

 しかし、もちろん全力でやった結果人に及ばなかった部門と言う物も数多く抱えている。今回話した内容で肝要なのは、偏に「人と比べる事で自分の限界を知り得る事が出来たかどうか?」という一点に尽きます。

 

 話を戻しますが、この「自分は特別だ」という意識を裏付ける話として、例えばこのコロナ禍にあっても平気で観光地や遊び場に出掛け、自分は決して感染症などには掛からないという謎の自信の元身勝手な行動をする人間、というモデルが挙げられるでしょうか。

 まあとにかく、世の中には自分が「神以上の何か」みたいな意識を持っている人間が実際にかなりの数居る。そしてそれがネット・ネイティブ世代以降増え続けている、と私は考えています。

 

 

 まあ自分は特別だと勘違いした人間がネットで自由に発言する訳ですから、そこが地獄になるのは自明の理であり、当然特別だと考えている以上反発する意見などにも耳を貸さず、根拠もなく自分が正しいと信じ込んで延々持論を吐き続ける「ネット評論家」タイプの人種を多数生んでいる訳です。

 一方で、我々のような創作家にとって、「自分は特別だ」と信じる事は逆に大切である側面もあります。

 

 作品を作る、という職業の場合、基礎力や学力も重要なのですが、より重視される物として「発想力」があります。この発想力は、経験則からもたらされる確実に実態のある地に足着いたものなのですが、しかし自分を超えた発想をするという場面が多々あるのも事実。私が実感している事として、「自分は特別だ」というある種信仰に似た境地に達する事で、この託宣的な発想を得る場面が多々ある訳です。

 自分を超えた存在を信仰する事で託宣を得る、という場面は昔から宗教家にも良く見られますね。

 

 と言う事を、割と昔からモヤモヤ理屈として煮詰めて来たのですが、昨今余りにも「自分は特別、周りとは違う、だから私だけはクリーンな人間」と言外に滲み出る言動をする人種を多数見かけるようになったので、正直参って来ていまして。あまりにも視野が狭いなと。

 ネットを見ていると「インターネットは決して害にならない」などというネット民にとって非常に都合のいい論説を吐き散らす人種が後を絶たないわけですが、今述べたような点でも他の論点でも確実に実害は出ているなと考えています。信じたい事だけ信じれば良い彼らは非常に楽なのでしょうが、周りは堪ったもんじゃないですよね。

 

 などとほぼ愚痴になりつつまた次回。