イラスト・ノート

イラスト描き、山田唄の制作物を載せて行きます

「黒金鼠」

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■黒金鼠

 

 おはようございます。今回のイラストもいつもとやや違う路線を狙ってみた物。古代兵器である大鼠とその制御権を持つ少女、的なイメージでしたが、そのコンセプトを表現しきれていませんね。荒廃した街など、背景の様な補助的な要素を入れるともう少し分かり易かったのかなと。

 

 この一か月ほど、どうにも実力がほとんど伸びていない気がしております。相変わらず画面全体に渡ってのライティングに不自然さがあり、それが酷く絵のリアリティを損ねる結果になっている。

 最近は光源の意識が特に蒙昧だったので、どこかで気合いを入れ直さないといけませんね。

 

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■経過

 

 さて、先日、こちらでお世話になっているりと様がこんな記事を書いていらっしゃいました。

ritostyle.hatenablog.com

 相変わらず勝手に要約すると、自分は常に本を持ち歩いて隙間時間に読むようにしてますよ、という内容。なるほどなと思ったのと、この数年自分は書籍媒体での活字に随分長い事触れていないなと思い出したので、りと様が以前書評を書いていらした「原田マハ」様著の「楽園のカンヴァス」という小説を図書館から借りて読んでおりました。

 

ritostyle.hatenablog.com

 書評としてはりと様の書かれているものが十分すぎるので、私は私なりに読了して思った所を。

 

 この物語の軸となるのは、アンリ・ルソーの贋作か真作か分からない一枚の絵画と、そして彼に関する物語を記した一冊の本なのですが、この本の中にルソーの、これも創作か史実か分からない生活と絵に対する葛藤の様子が出てくる。

 それによれば、ルソーは美術館である画家の作品を見た時に「自分にもこれと同じくらい素晴らしいものが描けるのではないか」という思いに駆られ、すぐさま画材一式を購入して一枚の絵を描き上げたそうなのです。その出来を観て思ったと言います、「俺は美術館で見たあの絵を越えたのではないか?!」と。

 

 ちなみに私は先日も書いたように前近代画家には全く明るくなく、ルソーもなんとなく名前を知っている程度でしたが、小説を読むにつけ、美術について知識も経験もほとんど無く、それでいて毎年画展に絵を出し続けて衆目の嘲笑を浴びた画家、であるとされているらしいと知りました。

 それでも、物語の中のルソーは自分の不名誉な記事を書きたてる新聞を喜び切り抜いて集めては、どんな時も画家を名乗り、そして安定した仕事すら辞めてじり貧で絵を描き続けるのです。

 

 その姿勢に、私もいささか感じる所がありました。

 私の絵も、過去散々人に馬鹿にされてきた。「粗が多い」「独創性に拘り過ぎている」「人体の理解が弱い」「完成していない」

 それでも私は、なぜかある程度の確信をもって絵を描き続けてきた気がしています。「自分は”新しい”絵を描いている」「いつか自分の絵を認めてくれる人が現れる」と。

 

 無論今までも書いたように、何度も辞めたくなりましたし、ルソーのように神託的な確信があったわけではない。ただ、それでもなんとなく小説を読み進めるにつれルソーと自分を重ねてみておりました。

 最終的にルソーは、自分にとっての最大の芸術の理解者を得て、その後すぐ他界します。時が過ぎてようやく彼の偉業が認められるようになり、そして誰もが知るのです。「ルソーは西洋絵画史に革命を起こした絵描きであったのだ」と。

 

 物語の中にこんなセリフが出て来ます。「あの人(ルソー)の女神になってやれよ。そして永遠を生きると良い」この台詞の真意は、ルソーのモデルになりその絵の中で永遠に生きる女神となれ、という、ある種高尚な誘いであるのですが、なるほどなと思いましたね。

 昔から時々考えてきたことではあるのですが、自分が死んでも自分の絵は残り続ける。もし一人でも、その絵に価値を見出し蒐集してくれる人がいるなら、それは、自分が画家として生きた何よりの証ではないだろうかと。

 自分も、現在の年齢的に若い間に認められるのは恐らく難しい。それでも、いつか時代が自分に追いつくだろうくらいのつもりで、確信を持って描けたなら、それは素晴らしい事なのかもしれない。それが自分の生きた跡となるのかもしれない。

 

 そんな風に思った読後感でした。

 いい加減冗長なので、また次回。