「岩蛇遣い」
■岩蛇遣い
おはようございます。今日の一枚も普段描くようなテイストから一段外れてみた物です。フレアスカートがややはためき過ぎというか、おそらくあれは内側で何かに固定されているんだと思うんですが、脚を見せたかったのでこんな感じに。杖の形状は失敗しましたね。もう少し形態感を意識すれば良かった。
この所やや自分の創作物に対して甘くなるけらいがあったように思います。
例えば100点満点のテストで70点を安定して取れる実力が自分にあったとして、じゃあ70~60くらいで満足してやっていくか、それでも100点を目指して苦しみ続けるかは存外大きな差の出る選択だと思う。もちろん100点とっても120点取れるような人が居る事に気づくだけでたぶん終わりはない。それでもがつがつやってかねばいかんのかなとか、また思い直しております。
■アニメ絵練習
■経過
さて、まだ交流はないのですが、ちょくちょくこちらで記事を拝見させて頂いている方がこんな記事を書かれていました。
革新的な思考の転換! とかではないのですが、思ったままを素直に綴っていらして共感できる部分の多い記事でした。
私もずっと、絵を辞めたい辞めたいと思いながら描いてきた。辞めなかったのは「もったいない」とか「諦めるほど努力してない」とか言われ続けて来たからで、本当はもうずっと自分に才能が無い事も伸びしろが僅かであることも、よく分かっている。
「自分にしか描けない世界がある」とか、「楽しく描けば良いじゃ無い」とか、たまにツイッターやらで記事にされているのを見かける。正直別世界の思想過ぎて笑ってしまう。私にとって絵とは他人に技術を褒められたくて始めて、上手くなるから伸ばし続けてきた単なる道具であって、表現の手段であったり楽しんで描くようなものではない。歪んでるのはわかっているけれど、それはもうどうしようもない。
最近、一枚に七時間も八時間もかけて描いて、それに対して僅かな評価を得るたびに、ああ、虚しいな、と思う。私の七、八時間の労力と、これまでの十数年の努力にはこの程度の価値しかないのかと。そんな事を延々繰り返すうちに、機械的にただルーチンとして絵を描いている自分に気づく。
そろそろ潮時か? 仕事探しを始めようとしている理由にはそんな思いもある。
ただ、先程の記事を読んで思い出したんですよね。私にも、凄い絵を描きたい、こんな風に絵で人を魅了したいと思っていた時期もあったなと。それがこの先十年掛かるか二十年掛かるかは分からない。ただ、辞めなければいつかは到達できるのかもしれない。
少年のころの夢は何一つ叶わなかった。ただ、それならばこれからもう一つくらい、晩年まで温めておく夢があっても良いのかもしれないと思ったんですね。
それですべて割り切れるほどまっすぐな気持ちでは無い、正直まだ清濁併せのむ心持ですが、相変わらず自分は絵を描いて行くんだろうなと思ったのでした。
そんな感じで、また次回。