山田唄のイラストブログ

イラスト描き、山田唄の制作物を載せて行きます

相対思考と絶対思考

 こんばんは。昨日はなんだか気忙しくしていて、ブログを更新する暇がありませんでした。

 

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■「格闘神父」

 筋肉とお爺さんの練習に描いてみたもの。相変わらずというか筋肉を盛ると偽物っぽさが出てしまいます。つるっとしているのが悪いのかと思って若干粗いタッチで描いてみたのですが、自分は粗の残し方がとても汚いので、やはりただただザツに見えてしまう印象。粗を残す描き方は画面の情報量を増やす上でも必須になるので、どこかで訓練し直さなければいけません。

 

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■習作

 なんだか最近、女の子の衣装の変態度がどんどん増している気が致します。自分にはそもそもフェチといった趣向がほぼ無い(物に対して好き嫌いをほぼ覚えない)ので、最近は頻繁にウケ=一般的なフェチを狙っているのですが、どうも行き過ぎているというかはき違えている感があります。上品な絵でも色気はあるもので、そういう表現を目指して行きたい所。

 

 さて、今回は絵とは直接関係ないお話をちょっと語ろうかな、と。

ritostyle.hatenablog.com

 こちらでお世話になっているりと様のブログ記事↑を拝読して考えたことです。相変わらず分析と言うよりは単なる思考垂れ流しになるので、よほど暇な時以外は読み飛ばし推奨。

 

 りと様の記事で、「他人と自分を比較してどちらが善か悪か、といった、グラデーションの無い世界」というような記述があるのですが、これが大変興味深いなと感じました。人間という物が本能から離れた理性でものを考えるとき、大体の場合この「比較してどちらが正しいか間違っているか」「上か下か」という基準で思考しているのではないかなと私は常々考えています。

 

 まず、物心つく時、人間が自分という者を知覚するのは、「他人」の存在に気付くからだと言われています。それまでは漠然と世界を観ていた自分が、他人と「比較」して初めて輪郭を得て存在する。この自己の知覚こそが他の生き物と人間を分ける大きなポイントであると言われていますが、同じく他の生き物との違いであると言われる「言語」というものもまた、比較を中心に組み上げられた体系になっているように思えます。

 人間がまず始めに口にするのは「パパ」「ママ」そして「ぶーぶー(車)」といったような不完全な名詞です。そしてそれを大人に正されて徐々に正確な名詞を覚えて行きますが、その次に覚える「大きい」「小さい」「速い」「遅い」等といういわゆる形容詞。これは完全に比較、対照を目的とした、対義語の必ず存在する品詞になっています。更には、その次に覚える動詞もまた、英語の体形を観ると分かるように、必ずDo not=否定形の存在する品詞。

 つまり、人間が世の中を観る基準として、常に基本となるのが物と物、概念と概念の比較であると考えられます。

 

 ここから軽く絵に関しても触れて行きますが、絵に限らずあらゆるものの評価は、やはりこれも比較を中心になされている物であると言えると思います。単純に言えば、「好き」か「嫌い」かですね。その好き嫌いに個々人の理由は存在するものの、多くの人が「好き」と言えばそれは良いもの、優れたものとされ、多くの人が「嫌い」と言えばそれは悪いもの、劣ったものとされます。この多数決と言う決め方がそもそも人数の比較ですね。

 私は昔から善悪観が大変希薄というか、比較という行為に関して人一倍神経質であり長けているものの、それを基準に良い悪い、好き嫌いを判断する事はほぼありませんでした。まず、自分と他人を比較したとき、自分のほうが劣っているものとして価値を判断するのが当たり前になっていた。昔からコンプレックスが強く自己否定型の自我を持っていたようなのですが、そのせいで良いものとは自分の好きなものではなく、他人が好きなもの、というのが自分の第一基準だったのですね。それは自分自身を省みる際にも適用され、他人に気に入られる自分=良い自分、なのでかなり人目を気にしてびくびくしながら生きて来ました。

 その為に逆に、比較という行為は日常化しており、より詳細で明細な比較を行うために、善悪の間にグレーゾーンを作り、細かく階級化するようになりました。

 

 さて、最近知った絵描きの傾向に、「視覚重視の色優先型と聴覚重視の線優先型」というものがあるのですが、絵描きは厚塗りや水彩塗りを得意とする色調、明度の細かい変化で絵を作って行く事が得意なタイプと、アニメ塗りやギャルゲ塗りを得意とする線画を基準に絵を作って行く事が得意なタイプに分けられるそうです。前者はデッサンなどに非凡な才を示し、後者はイラスト技術で優位に立つ、という研究結果が出たそうです。

 ここからは私の推測になりますが、自己否定型の自我を持つ明細比較型の人間がこの視覚重視の色優先型に成り易く、自己肯定型の自我を持つ単純比較型の人間がもう一方の聴覚重視の線優先型に成り易いのではないかな、と思いました。もちろん人間の身体能力に関わる部分なのでその限りではないでしょうけれど、人間の知覚もとどのつまりは脳によるパターン認識なので、思考のパターンがその適正に深く絡んでくる可能性は大いに在り得ると思います。

 

 さらには、絵の上手い下手に関しても先に述べたようにいかに多くの人が良いというか悪いというかに掛かってくるわけですから、これも自己否定型の人間と自己肯定型の人間それぞれのコミュニティやパターンがあると推測できます。恐らくは、自己否定型の人間は他人の評価に依存するイラストレータータイプの絵描きに成り易く、自己肯定型の人間は自己表現を目的とした画家タイプの絵描きに成り易い。ただし、自分は自己否定型である割に画家タイプに近い思考を持っている事から、自分の属するコミュニティが優先的に関わってくるものと思われます。

 私は絵を描き始めた当初、イラストレーターではなく画家を目指していました。それは画家中心のコミュニティに居たからです。しかし、技術優先の思考はその頃から芽生えており、個性と言うよりは技巧派の画家志望でした。

 ここから、イラストレーターにも画家にも個性派と技巧派が居る理由がなんとなく見えてきます。

 

 私の絵は昔から「個性的」という評価をされる事が多いのですが、それはそもそも画家志望で個性優先のコミュニティに居たせいと、より多くのサンプルからアイディアを収集する癖があったためだろうと思います。つまりは、芯にあるのは他人優先の考え方であるわけですね。

 

 そんな感じの考察でございました。

 最後にちょろっと零しますが、そういう理由から、自分は善悪とか良悪という基準でものを判断するのがかなり苦手です。グレーゾーンがある事を前提に物を考えているので、人それぞれである、という考え方がまず先に立つのですよね。ついでに言えば自分の中に確たる基準がないので、他人の考え方をむげに否定できない所があります。

 なので、これが悪い! これが良い! という言い方で寄ってこられると大変しんどい。その良い悪いの概念がそもそも私には理解できない上に、それでも否定できないので。そう言う所が、りと様が記事で仰っていた「この社会は生き辛い」という人間と、逆に適応して行く人間を分けているのかなと思ったりします。

 

 では、今回はこの辺りで。また次回。