山田唄のイラストブログ

イラスト描き、山田唄の制作物を載せて行きます

イラスト的思考と絵画的思考

 こんばんは。久しぶりに三日間ほどお休みを頂いておりました。

 さっそく立ち絵など描いて手慣らしを始めているのですが、こちらに上げるものがまだ十分に仕上がっていないので、今回は久方ぶりに色々語りながら昔のイラストなどお目に掛けようかと思います。非常に長いです。ワーキング。

 

 今回から、こうした考察系の記事は、講座では無く「美術持論」というカテゴリでやって行こうと思っております。今回の記事の内容にもやや関わってくるのですが、そもそもが私の考え方はイラスト中心の物では無く割と絵画、美術方面に偏っており、また「講座」という枠組みにしてしまうと納得出来ない方が多々出てくるらしいと分かったためです。そんなわけで美術持論。

 どうしてもそこに帰着すると言うか、私が絵を描いている理由がそれなのがどうしようも無いのですが、「どうすれば絵が上手くなるのか」という部分に関してまた持論を垂れ流して行こうかな、と。

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 まず前提として、「絵が上手い」と一言に言ってもそこに込める意味は人それぞれと言うか、人同士完全に一致していることがほぼ無いのではないかと思われるのですね。

 人によって抱いている「上手い絵」のイメージが、そもそも人同士滅多に一致しないためです。五分でさらっと絵が描けることを上手いとする人も居れば、ともかく手数を掛けた重厚な表現を上手いとする人も居る。この両者の間にはかなり大きな認識の隔たりがあり、そこを越えて愛される絵描きになるのはほぼ不可能です。習得しなければならない技術の方向性が真逆であるために、必要な時間的努力と労働的努力が分散してしまい、大抵はどっちつかずな状態になって成長出来なくなるためです。

 ここに於いて見えてくるのは、「努力するならば目標を掲げそれを見失わないようにしなければ成長には繋がらない」という点。

 

 もう少し考えを推し進めてみると、大体物事が「上手くなる」過程には、「知識」「技術」「経験」の三つの柱があり、それらを組み合わせて向上して行く事が必用になるのではないかなというのが今の所の私の考えです。

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 昔からイラスト系の絵描きの間で良く議論が交わされる所である、「量を描けば上手くなる」のか、「質の高い絵を描かなければ上手くならない」のか、という問いがありますが、あれも結局は努力する方向性の違いと習得するものの違いがあるだけで、どちらも正しいのではないかと思われます。

 量を描くことで主に鍛えられるのは、手の動きとしての「技術」と、反復運動で得られる「経験」であり、質の高い絵を描くことで得られるのが新しい技術としての「知識」と、難しいものを描き切ったという「経験」。実際絵画の世界では昔からどちらの練習法も平等に重視されており、クロッキーやデッサンを重ねて量を描くことと、作品を描いて質を高める事が同時に行われてきました。事この点に関して議論がなされる背景には、「どうすれば最短距離で上達できるのか」という思惑があるかと思われます。

 

 実際この「最短距離」というのは物凄く大切だと思う。私などは美術系の学校にほぼ通ったことが無く、デッサンなども独学でした。こういう事を言うと大体「独学とかかんけーねーよ」って言われるのですが、では、養い教育を施し善悪を教えてくれる親が居ない状態で子どもが育ちますか? というと、これ育たないんですね。「生きる」だけなら大体の子どもが何とかやって行きます。でも、その道は極端に狭くなる。文化的な生活からはどんどん離れて行くのが常です。

 それは、その子どもの周りにいる大人の思惑に、その子ども達が転がされて生きる方向性を制限されるからです。この方向性の制限という事をやってやらないと、人間は結局何をするにも自分では決定出来ない。でも、当然のように周りの思惑すべてに随っていれば悪化しかしません。どこかで「良い方向に」導いてくれる存在が必用になるのですね。若い時期にこういった良い導き手に出会える人間はとても幸福です。それが「正しい」かどうかはともかく。

 割と絵の話だけではなくなって来てるのですが、一方に進めばもう一方の道は切り捨てざるを得ない物。そしてその道はその後永遠に交わらないのがこの社会です。

 

 例えば、教育の現場を目指してたたき上げで校長までのし上がったような人間と、最初からエリートコースを歩み順当に校長の座に就いた人間とでは、観ている世界も見て来た世界も違う。よって目指す世界も違います。この両者の間に意見の融和がもたれたとしても、それはごく表面的なものになるでしょう。

 しかし、どちらも社会に必要な歯車であることには違いない。

 昔聴いた逸話にこんなものがありました。「野球選手のイチローは、同じ世代で野球選手を目指していた君のお父さんよりも優れた野球の選手だ。しかし、君のお父さんも”野球以外の部分で”同じだけの時間を何かに費やしてきた。イチローと君のお父さんは、見た目には全く違うけれど、その経験を全て足した値は同じなのだ」

 

 前置きが長くなりましたが、イチローがあそこまで優秀な選手として今もなお活躍し続けているのは、野球に生涯を注いできたからです。才能もあったでしょうが、例えば彼がサッカーに一生を傾けたとしてもある程度の活躍をしたことが期待できます。しかし、彼はそちらを選ばなかった。結果、サッカーという道は彼にとってほぼ無縁なものとなりました。

 彼を少年期から野球へと向かわせた「方向性の限定」があったからこそ、彼は野球に全てをつぎ込みあの域に達したと言えると思います。

 

 少年期と言う早期に彼の才能を見抜き、それに見合った指導をし、開花させた人物が恐らく居る。生涯を通じて一人ではなかったにせよ、そういう指導者、導き手に恵まれたからこそ彼は迷うことなく自らの肉体と精神と技を磨いてこれたのではないかな、と。

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 脱線しすぎたので絵の話に戻って行きます。

 ただ「絵」と一口に言っても、そこにはイラストであったり絵画であったり抽象画であったり、ともかく膨大な数の分野が含まれます。そして、其々の分野に於いて、求められるものや必要な技術、経験、知識は全く異なってくる。それが私が最近こちらでブログを書かせて頂いていて特に感じる所です。

 

 元々私などは、「美術」という言葉と括りで絵を考えて来ました。美術、とは、学問としての絵です。絵の体系化と分類と記号化を主な目的とし、それは表現するための術と言うよりは完全に知識に特化した学術的な見地でした。元々私が色々な事の言語化や体系化を好む学者肌の人間であった事が由来しているのだと思うのですが、それだけに絵画やイラストなど、特定の分野に依らず総合的な視野で中立的に全体を統合して行く必要があった。それが今の自分の美術観を形づくっていると思われます。

 昔言われたことがあるのですが、「中立というものも立場が決まっているようなものだ」。結局は私も、「美術」という方向性に自分を縛りつけた結果そこからブレることが出来なくなってしまっただけの者なのです。

 

 イラストという分野が、現在日本で爆発的な伸びを見せていますが、それはこの分野が他の創作的分野と密接に関わるマルチメディアという発展の仕方をして来た分野であるからでしょう。アニメから入るにせよ、ゲームから入るにせよ、漫画から入るにせよ、創作をしてきた人間が一度は通過するのがイラストという分野なのです。大して、絵画や美術という分野は極端に閉塞的で横のつながりが薄い。イラストを選択した人間には更に多くの選択肢が与えられる反面、絵画や美術に向かった人間はそれに集中せざるを得なくなると言えると思います。結果、絵画や美術の専門性は極端に高く成り、芸術や学術と言ったアカデミックな方向性へと特化せざるを得なくなる。

 日本ではこの学術的な価値というものが未だ十分に認知されていないために、現在は絵と言えばイラストの天下です。

 

 実際、私も美術方向から入ったなどと申しておりますが、「独学」という言葉をこの分野は物凄く嫌います。前例と歴史から入らなければ全くの門外漢と言う扱いを受ける。それに対してイラストという分野の間口はとても広いですね。ある意味で「描ければ」評価される分野であると言えます。

 

 このように、イラストというものと絵画というものは体質や考え方がまるで違います。まだまだ説明不足を感じるので折に触れて語って行こうかなと思いますが、「イラストも描けて且絵画的な思考も出来る」という人物はほとんど居ません。本来はデザインと絵画という異なった分野があり、その二つに跨る形で存在したのがイラストレーターといういわば「何でも屋」だったのですが、現在では「イラスト」というものが一つの独立した分野として機能しており、考え方や習得法、表現法も専門性が増しています。

「良いデザインがしたいのか」「良い絵が描きたいのか」「表現がしたいのか」といういくつかの決まった目的でそれらを仕分けして行かないと、これからの時代「究める」という事をやろうとしたときに厳しくなって行くのでしょう。私の場合今の所「良い絵が描きたい」なので、イラストとしての専門性をもっと高めて行かなければという所です。

 

 大変長くなってしまいましたが、今回はこの辺りで。

 余談ですが、自分の場合「アウトプットできる量」という物に一定の限界があるのが分かって来ました。実際絵だけを描いてブログの記事の文字数を減らしていた最近は殊更に早いペースでイラストが描けましたし、モチベーションも持続した。きっと絵で語っていたのでしょう。自分は絵描きでありたいと思っているので今後もそのようにありたい所ですけれど、実際には私は絵よりも言葉のほうがツールとして適合しているようです。まあそこから意地汚く絵描きという道に縋りつくのも良いかなと思いますけれども。では、また次回。

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