山田唄のイラストブログ

イラスト描き、山田唄の制作物を載せて行きます

初級者講座休題「個性とイラストレーション再考」

 こんにちは。台風通過中ということで、当然のことながら雨模様です。朝からこの雨の低気圧にがっつりやられてしまい、先ほどまで床に伏せってうつらうつらしておりました。とは言え台風としての被害は今の所心配されたほどでは無いようですので、その点は一安心ですかね…。

 今回は、最近ちらちらっとコメントのほうでご意見を頂くことも増えて来た「イラストレーションにおける個性」について、もう一度考えてみようと思います。

yamadauta.hatenablog.com

 まず、以前個性についてざっくり語ったもののリンクを張ってみます。長い記事になっておりますが、今回の内容はこの記事の内容を前提としたものに致しますので、さらっとでも目を通してから本文に入って頂けると幸いです。

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 さて、まず「個性」というものを七面倒臭く解き開いて考えてみると、早い話が「今まで誰も試みたようなことが無いような」方法や表現、またイラストと言う分野を限定的に見れば、「”ほぼ”誰も試みないような」方法や表現で制作されたもの、ないしその表現そのものが「個性的」と呼ばれる所であるようです。

 上に引用した記事で述べておりますように、海外に比べ日本ではその個性の価値が驚くほど軽くみられる傾向にあるように思うのですが、まあそれも当然と言えば当然。日本では創造性、クリエイティビティというものが一度弾圧され抹消されるに至った背景があるからです。

 ざっくり申しますと、戦時中ですね。ある逸話に、日本人がラジオ体操をしているのを見た外国人が、「これだけの人数の国民が一度に同じ動きをする訓練をするとは恐ろしい。暴動や内乱に繋がるか、もしくは兵士の初動訓練か」などと言ったという話があるらしいですが、このラジオ体操と言う文化もそもそもは戦時中に始まったものです。

 

 日本人の意識を統一し、戦争という大義名分に向けて扇動するために行われたのが、要するに今日日本では当たり前となった「協調性」「同一性」に関する取り組みなのですね。

 

 ただ、引用した記事で述べましたように、そもそもこの協調性や、商品価値の均質化という取り組みが果たしてきた恩恵は限りなく深い。日本が戦後の恐慌から立ち直り、今日巨大な技術先進国家を築くに至った背景にもまた、この「他人と足並みを揃えよう」という思想が密接に関わっています。

 とりあえず個性というものに対する私なりの定義づけはここまで。ここから先はイラストレーションと言う物の内側から見た時の個性に関して私見を述べさせて頂きます。

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 まず、絵の世界でなぜ絵画とイラストレーションと言うものが区別されて体系化されているか、という話から考えて行きますが、この点は九九様が以前こちらのコメントにも寄せて下さったように、絵を「商品」と考えるか「表現活動(アート)」と考えるかの違いであると言えると思います。

 後者の表現活動について見て行けば、要するに自分が言いたい事を絵として纏め、それを広く分布させる目的で「表現」を使っているということですね。

 ぶっちゃけ、私はこの「アート」というやつやら「アーティスト」という人やらが胡散臭く感じてあまり好きになれません。特に「自称」でそれを名乗っている方達や、オリジナルの(例えば”落書スト”などと言う名前を付けて)活動を行っていると豪語している方達。

 

 大体にして反体制や自己主張を謳うのであれば、他に幾らでもやり方があるわけです。わざわざ絵と言う根本的に技術が必要な分野に跨って、その技術を環椎もしないまま好き勝手描いてそれにあまつさえ価値を付けて買ってもらおうなんていう思考はとても理解に苦しむ。”創作活動”というものに限らず、あらゆる生産活動はそれによって生み出されたものを「金を払ってでも必要とする」お客様がいらっしゃるから成り立っているのです。

 ”個性的だね、凄いね、じゃあお金を払おう”

 そんな奇特な人間はよほど金に関して余裕のある人間か、美術という者に魂ごと憑りつかれてしまった本物の美術収集家であるか、のどちらかでしょう。

 

 その点では私も九九様と同じように、個性を主張した時点でそれはイラストレーションの分野から外れ、商品価値を無くすものであると思っております。この内容に関しては、はじめに引用した記事でも口酸っぱく語ったところであるのですが。

 

 さて、その一方で、そんな閉鎖的で縦横の繋がりを重視する国である日本にも流入してきた新しい価値観をもたらす媒体があります。

 言うまでもなく「インターネット」ですね。

 私は、この媒体が、近いうちに日本国内のみならず世界規模で「個性」と「商品としての均質化」の枠組みを壊し、「イラストレーション」と「絵画」の仲立ちとなるような分野を築くものになると個人的に確信しております。

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 根拠を述べますと、そもそも「ニッチな購買層に向けた商品」がこれまで売れなかったのは、それを扱う”店”が無かったからです。店は利益を出さなければならず、そのためには店頭に並べる商品を売れ筋で統一する必要があった。極限定的な例外として、ガレージセールやフリーマーケットなどの市場がありましたが、まあ当然のごとく個人対個人のやり取りの域を出ず、その規模は個々の店で見れば小さなものでした。

 ここまで読んで頂ければ恐らく察して頂けているでしょうけれど、インターネットには、その狭い個人間のネットワークを世界規模まで拡大する可能性が大いにあるわけです。

 

 その効果は既に実際の価値観となって現代に刻まれつつあります。代表的なもので言えば「萌え」ですね。あれらはいわゆる属性というキャラの「特徴」を賛美する思想ですが、そのほとんどはオタク間でほそぼそと信仰され続けてきた大変ニッチな主義志向でした。それが今日、世界規模に発展するまでになった。インターネットの持つ普及率を考えればそれも当然かもしれません。

 

 つまり、現在ニッチと言われている主義志向に関しても、今後世界規模で幾らでも同志が見つかる市場が出来上がる。よほど変質的な思想でない限り、道楽や趣味、さらには先ほど申しました「自己表現」にすぎない物に関しても、十分に「価値」が生まれる兆しが既にあるということです。

 もちろんこれは今後そう”なるかもしれない”という話であり、今後数十年はまだまだ個性について議論が交わされ、新しい価値観が乱立されていく状況が続くのでしょう。しかし、そうした背景を体系的に捉えれば、新しい画法が開発され普及されてきたこれまでの美術界の歴史の反復であり、その「変化」は恐らく確実に訪れるものであると推測出来ます。

 少なくともこの数年で、オタク界ではそれまであまりにもニッチであった「異種族」萌えであるとか、「グロテスク」萌えであるとかが一般にまで浸透するほどになりました。先ほど申しましたイラストレーションと絵画の枠組みを壊す以前の問題として、価値観の転換はすでに始まっている。この波に乗れるかどうか、が、今後の創作業界に求めれる対応ではないかと私は個人的に考えます。

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 これは私個人の思想も含めての物言いですが、「萌え」なんてものは価値観の一つに過ぎない。それも、これから爆発的に広がりを見せて行く大衆価値観のごくさわり、入り口に過ぎない価値観です。現在の日本人作家にはあまりにもそれに拘る体質が大きいように見えますが、現実的に萌えという言葉の意味すらどんどん拡充されている以上、そのもたらすブームは確実に一過性でしょう。

 ここからは、絵描きが自分自身で何を信じ、なにを掲げ、なにを心に括ってやっていくか、という、ある意味反骨精神のようなものが活きてくる時代になると私は思っております。そうなった時、日本に於いても「個性」という概念は全く違う印象を持って語られるようになるでしょう。そういう時代がもう十数年後というレベルまで近づいている。

 

 私が馬鹿にしている「アーティスト」という職業が、「イラストレーター」にとって代わる日も間近に思えます。

 

 さて、今回は最初にリンクした記事の保守的な内容に比べ、随分革新的な思想について述べさせて頂きました。現在の所はそのどちらも私の本意であり、自分に言い聞かせて柔軟性を保つことでこれからの大きな波を待ち構えているという恰好です。

 少なからず自分の絵にもっと大衆性が必用になる点は重々感じているものの、その重苦しい戒律のほうがニッチな思想になる日も近いのではないかな、と。

 そんな所で締めさせて頂きます。また次回。

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