イラスト・ノート

イラスト描き、山田唄の制作物を載せて行きます

絵を突き詰める人と楽しむ人

 こんにちは。予告通り一昨日と昨日の二日間は休みに充てておりました。ほぼ二日間丸々寝ていたのですが、そういう生活をしているので家族にはとても心配を掛けています。かねてよりお医者様にもその辺りは報告しており、「病気のせいなんでしょうねー」という所に落ち着いているものの、もう少しなんとかしたいですね。親が居なくなったら世話をしてくれる人も居なくなり即アウトですし…。

 今日は、いつもお世話になっている長田様のブログ記事について、ちょっと先日描いた自分の記事も絡めて言及させて頂こうかなと思います。

 

 先日、ほぼ愚痴であったのですが、絵を描く目的のタイプについて少し語らせて頂きました。こちら↓


目的としての絵、手段としての絵 - 山田唄’s Works

 

 大体総括すると、絵をある程度描き進めて行くと、絵を表現の為の「手段」として考えるタイプと、単純に技術として伸ばして楽しむ為の「目的」として考えるタイプに分かれて行くのでは、という内容でした。

 これに対して、直接関わりがあるわけではないのですが、テーマとして近いことについて書かれている長田様のブログ↓を拝読したので、その内容も併せてもう一度考察してみようと思います。


考える日記。なぜ今の世代は絵が苦手なのか - イラストレーションアドバイス

 

 相変わらず文字だけになる上に論拠の不明な記事になると思われます、お気持ちとお時間の許すときにどうぞ。

 簡単に、長田様の記事から要点を抜粋させて頂きます。

 

>そもそも絵、というのは、それ単体ではめちゃめちゃつまらないものです。
>その絵から「なんらかの魅力」がついてきてはじめていいものに変わる。
>そういう意味では僕なんかまだまだですよね。

>絵を描く際にスタートラインに立つとき、「想像を外に出す目的」で絵を選ぶのが一般的じゃないかと思います。
>ですが、今の子たちの一般は変わりつつあります。

>描きたいのは「絵」であって、「お話」じゃないんですね。
>アニメを見るときも、「お話」を見るのではなく、迫力、絵柄、かわいさなんてのを意識してみてるんじゃないでしょうか。
>最近の漫画を毎日読ませていただいておりますが、そういった意味で面白い作品はたくさんありますが、僕の考えの介入する作品は中々ないです。
>これは、それだけで満足しちゃうからですね。自分で考える必要がないから。

 

 私自身この部分を拝読して特に唸らされたのですが、上のお話を裏付ける話題として、最近ツイッターでよく回ってくるこんな話題がございます。

 ”今の若い人の中には、「描きたいものもないし、絵が特に好きと言うわけでもないけれど絵が上手くなりたい」という人がたくさん居て、そういう人達は大抵、まず副読本を大量に買い求めそれを知識として読み込む。でも、失敗を恐れて実際の描く作業はほとんど行わない。結果、知識ばかりを蓄えた絵が描けない人になってしまう”

 この話題の真偽に関しては正直確かめるすべもないのですが、絵の初期段階で挫折してしまう人の一つの典型として、こういったケースも実際にあるのではないかなと思います。

 彼らがなぜこういう考え方に至るのか、と言う部分を突き詰めて行ったとき、長田様の記事の中で触れられている「絵を描きたいだけ」という目的の定め方の問題があるのではないか、と言う所に落ち着いたわけです。

 

 ここで私の目的と手段の理屈に戻ってみると、まさに私が普段掲げてる「技術として修めたいがために絵を描き続ける」という方法。それが、絵を描きたいだけ、といういわば思考停止のような状態につながっているのではないかと危惧したわけです。

 その際のブログに頂いたコメントなども省みるにつけ、本当に私が思っていたように、「絵を目的として考えるほうが絵を続けて行ける」のか考え直さざるを得ません。実際に絵を「描くことを目的」として始めた人たちは、上で述べているように高確率で挫折しているのかもしれないのです。私は絵を始めて十年以上、ほぼ毎日休みなく描き続けておりますが、そのモチベーションの源は何か別の部分にある、と考えるほうが自然なのではないかと思えてきました。

 

 ここで前提として述べておきたいのは、「描くことそのものが楽しい」という私の気持ちは、恐らく絵を続けてきた過程に実際にプラスに作用しているだろう、ということです。

 でも、ここが今回の言及で最も大切な個所だと思うのですが、私は最近になるまで「ほとんど評価されてこなかったし、褒め言葉そのものもほとんど頂いては来ませんでした」。つまり、描くことが楽しくて続けられたというよりは、描くことが楽しくなければ続けられない環境にいた、という逆説的な結論こそが正しいのかもしれないのです。

 

 最近、友人がこんなことを言っておりました。

「僕が目に見えたものを見えたままに描き進めていたら、”そんなに色を重ねると色味が濁ってしまうよ”と注意された。今思えば、その人は僕の世界が好きだったんじゃ無くて、ただ綺麗なものを観たかっただけなんだ」

 

 先日個性について考察したときにもかすめた話題ではございますが、私達技術肌の絵描きはどうしても絵を商品、技術の粋として捉え、芸術性やオリジナリティに疎くなり勝ちです。さらには商品として販売した結果「得る対価、報酬以上の価値」を持たせたいとも思わなくなっていきます。消費者の側も、個性や芸術性ではなく、単純に技術の高低で創作物を評価するようになって行き、その詰まった結果が今の社会、「作品にクオリティの高さを求めるが、話の面白さには無頓着」な現状なのではないか、と。

 長田様もブログで仰っていますが、そういった傾向は悪では無いのでしょう。クオリティの高い創作物が溢れている今の世界は、個々の創作者が努力し切磋琢磨して来た結でしょうし。

 しかし私は、我がこととして考えた時、技術――迫力、絵柄、可愛さ――だけの価値しかない退屈な創作をしてしまっているとしたら、と思うととても怖くなりました。

 

 私は、褒められたかったんですよね。「上手いね」「頑張ったね」「上達したね」そういう言葉を求めて、また自分自身にそう言ってあげるために努力していたんです。それはどこまでも内向きな努力であり、創作という「外に表現の枝を広げて行く」分野としては零点の姿勢だったのかもしれない。

 数年前、まだ明確に表現したいものの形があった頃のほうが、やはり良い絵を描いていたなとはまま思いますし。

 

 そんな感じで、反省と振り返りを行っていた今日でした。これから表現と技術の割り振りをどう持っていくのか…まだ結論は出ませんが、せっかくなので今月一杯くらい掛けてその部分を模索して行ければいいなと思います。

 長田様、先日の記事にコメント下さった夕橙様とめんと様、考える良い機会を頂いたことをお礼し、また、ここに勝手に話題を挙げたことを陳謝致します。

 

 では、また次回。

f:id:yamadauta:20150314171549j:plain