イラスト・ノート

イラスト描き、山田唄の制作物を載せて行きます

目的としての絵、手段としての絵

 おはようございます。またちょっともやもやっと考えてしまったことを書き出しておきたいので、本日二度目の記事になります、連投申し訳ない。

 絵を手段にするか目的にするかというお話。

 

 私が絵を描いてる理由にも関わってくるのですが、絵描きとしてある程度上手くなった人は主に上達するのが楽しくて続けてるタイプと、表現することが楽しくて続けてるタイプの二種類に分けられるんじゃないかなと思っております。

 もちろん、この二種類のアーキタイプの間には無限のグレーゾーンがあり、両極の間に様々な傾向を持った人間が点在している状態が本来のモデルだと思うのですが。

 私がどちらであるかと言えば、後者依りの前者と言う感じですかね…元々自分の考えたデザインを形にするのが楽しくて絵を描いていたけれど、現在に至っては描くほどに上達することが楽しくてなんとか絵を続けることが出来ている状態。

 

 この両者で何が違うのか、その決定的な所は、前者は絵を目的として捉え、後者は絵を手段として捉えている、ということではないかと私は思います。

 

 散々自分のブログでも言及してきたように、そもそもが絵は「表現」であり、その限り「手段」です。自分がイメージした内容を具現化したいからそのために絵を使う。

 でも、描いていると結構、この手段としての考え方だけではやっていけなくなるのが実情なんですよね。まず、絵を目的として描いているベクトル側の絵描き様は、私も含め物凄い生産性を維持できます。なにより描いてることそのものが楽しいという人種ですからね、それこそ周りの評価やら何人に診て貰えたやらの結果よりも、描いてる過程を楽しんでしまえる。

 対して、手段として絵を使っている側の人間は、合理的に商品としての絵を生み出すことに長けている反面、作業中は基本的に苦しい、と言う人が多いのではないかなと言う印象です。

 

 これ、一人の人間の範疇でも言えることですね。例えば私は、デザイン画やキャラの立ち絵を描くことが大好きですし、それを目的としているときはとても楽しく調子よく描くことが出来ます。しかし、絵が上手くなるための手段であるデッサンやクロッキーをしているときなどはひたすら我慢の状態になることがほとんどです。

 

 ここから考えられるように、手段として絵を用いることを前提にするのが大切なのは言わずもがな、ただし目的として絵を用いる人のほうが長く続けて行けると言えるのではないかな、と。

 仕事の手段として絵を用いている場合はこの限りではないですけれど、仕事って言う時点で自由には描けないのでやはり自分の場合ストレスにはなってるだろうなと考えられます。

 

 なぜこういう話をするのかと言えば、ある友人がこんなことを言っていたからです。「大学院に進むにあたって研究室の見学に行った際、先生に絵を見せる機会があったが、”確かに上手いけどこれくらいの人はごまんといる”と言われた。正直にまっすぐに話せる人として好印象だった」

 その友人は本当に絵が上手い人なので、正直この話を聞いた私はその言葉を言った先生に対して良い気持ちがしませんでした。

 憶測でしかないのですが、友人は技術を突き詰めて楽しむ職人タイプの、上の話で言えば絵を目的として捉えているタイプの人間なので、おそらくその先生は友人のことを「表現者ではないただの絵バカ」として侮ってこのような発言をしたのではないか、と私は友人の話を聞いた印象で考えました。事実私も、そのような理由で「絵バカ」扱いをうけることが往々にしてあるからです。

 

 それは良い。実際私など絵以外に取り柄もないのですから、絵バカと言われることはむしろ喜びです。

 でも、絵バカだからと言って絵に何もこめていないわけではない。表現者たる絵は手段派の絵描きが絵に様々な表現の意図を込めるように、我々職人型絵描きは技巧を込めているわけです。その技巧を得るために奔走してきた日々は本当に充実していたし、楽しかったし、苦しくもあった。

 

 それを「これくらいのはごまんといる」なんて言葉で片付けられてしまったことに、本当に腹が立ったんです。

 

 まあそれだけのお話でございました。友人自身は「俺はこれからも上達するから別に良い」ととても前向きに捉えていたので、私が騒ぎ立てるのはどうかと思ったのですが…こちらに留めておきます。

 絞めとして、絵を手段にするにせよ目的にするにせよ、どちらにも利点も辛さもあるでしょうし、私がどちらかを否定する意思を持ってこの記事を書いたのではないということだけ弁明しておきます。

 では、また次回。

f:id:yamadauta:20150310090441j:plain