「冒険者の集う街」と「悪夢の夜」
こんにちは。水面下で若干色々準備があったため二日遅れになりましたが、定期更新です。
■キャラデザ1
■冒険者の集う街
一枚目は、キャラデザのほうは比較的シンプルながらも良く纏まったものになった気がしております。ただ、一枚絵のほうがボロボロですね。今回もパース定規を使いまして、まあその使い方は概ね解って来たものの、やはりというか自分のスキルの至らなさが目立ちます。
今回であれば、奥行きは十分に表現できているので、あとはライティング的な部分での個々のモチーフの関連性、例えばビルや人物から落ちる陰であるとか、ビルの窓明かりからの光源であるとか、をもっと表現できればベターだったかなと。
■キャラデザ2
■悪夢の夜
二枚目は、一枚目の半生を受けて、よく似たロケーションで構成してみました。こちらは比較的良く纏まったのではないかなと思っております。
尚、キャラデザの際最近気を付けるようになった事なのですが、余りにも露出が多かったりバストサイズが異常なもの、また体のラインが不自然に出ている物などはやはりあまり描きたくないなと。そうした表現に振らなくても色気は出そうと思えば出せますし、むしろ下品な表現が増えすぎると離れていくフォロワーも居そうです。とりあえず一般に見せても恥ずかしくない表現を目指したいなと言う思いがあります。
さて、冒頭で述べた水面下で準備している事、なのですが、本格的に発表するためにもう少し準備が必要でして、最短で次回発表できるかなと言う見通しになっています。私が色々と不手際をやらかしているのですが、まあなんとかここまで漕ぎ着けられて良かったなと。そんなわけで詳しくはまた正式発表時に。
ではまた次回。
キャラデザシリーズ、機獣編
こんにちは。定期の木曜更新です。
今回は、新年開始早々やってみたキャラデザシリーズをお送りします。
■赤獅子
■藍狼
■緑熊
■黄兎
■紫蜥蜴
■翠猫
■紺牛
■茶栗鼠
■銀鷲
■金竜
今回は、機獣編の名の通り、身体の複数部位を機械化したサイボーグのシリーズとし、それぞれを獣と紐付けてキャラ立てする、というコンセプトで作成した十体になります。
実は同様の試みを去年もやったのですが、比較すると若干ではあるもののキャラデザの纏まりや引き出しが向上しているのが見て取れます。
反省点としては、後半、特にラスト二体がやや惰性的なデザインに成ってしまった点でしょうか。ラスト二体と言う事で「強キャラ感」を出して行こうというつもりだったのですが、開始当初の気合いが空回った結果と言えそうです。
さて、先日、ずっと愛読している「ハイキュー!」(説明不用かと思いますがバレーボール漫画です)の新刊が出ました。
当時、前回書いた件についてモヤモヤと、「自分は天才では無い、でもここまでやってきたのだから報われても良いハズだ」などとすっかり沼にハマってしまっていたのですが、ハイキュー新刊のラストでのあるシーンを見て何かが吹っ切れた気がしました。この後ネタバレを含みます。
この漫画の主人公、「日向」は、大変明るく快活な性格で友人も多く、バレーボールに対する情熱と負けん気、また素材も人一倍の少年です。しかし、環境に恵まれず、中学時代はほぼ一人で男子バレーボール部員を務め、そして三年になって新一年生を迎えて初めて挑んだ公式戦で、手も足も出ず大敗する事になります。
それでも彼は、高校でもバレーボール部を選びました。
彼には大切な記憶があります。当時から背が高い方では無かった日向ですが、小学生だったある時、テレビで映っていた全国大会の舞台で、「小さな巨人」と呼ばれる選手の活躍を目の当たりにします。
自分と同じ、「恵まれなかった」人間が、努力と技術でエースにまで成り上がり、そして全国大会の舞台に居る。
日向はその時、その小さな巨人と同じ高校に行き、バレーで全国大会に出る事を固く誓ったのでした。
さて、そして高校で一年生にして見事スタメンの座を勝ち取った日向なのですが、ある時、日向の高校、烏野と長い事ライバル関係にあった音駒高校と練習試合をする事になります。
その時出会った一つ年上のスタメン、孤爪は、バレーボールよりもゲームのほうが好きで、バレーを続けているのは楽しいからでは無く友人が続けているからなんとなく、という少年でした。勝つ事にも負ける事にも頓着がなく、音駒との練習試合で烏野はぼっこぼこにされるのですが、闘志をむき出しにする日向に対し、孤爪は「(勝っても)別に(嬉しく無い)」とボソッと言います。
しかし、練習試合を重ねるうちに、次々と新しいものを吸収して「未熟な恵まれない選手」から「チームの要」に成って行く日向を見るにつけ、孤爪は言うのです。「日向とならやってみたいと思うよ、負けたら終わりの勝負」
日向もまた、言います。「次は悔しいとか楽しいとか、絶対別に以外の事を言わす!」
長くなりましたが、新刊で相対し、熱戦を繰り広げる烏野と音駒。お互いに拮抗した実力だからこそ勝負は乱戦となり、その刹那孤爪が呟きます。「たーのしー」
選手以外の観客が皆訳が解らないと言う顔をする中で、日向はガッツポーズを取り雄叫びを上げるのでした。
前置きが物凄く長くなりましたが、その「苦しい」とか「しんどい」とかではなく「楽しい」と呟いた孤爪の姿に、私は何か救われた気がしたのです。
天辺に手が届く人間などごく一部です。どんなに努力したとしても、報われる枠の数は決まっていて、そこからあぶれた人間は落伍者になるしかない。でも、私が絵を描いてきたのは果たして報われたいからだけだっただろうか?
数字、結果、現実、勝敗。確かに大事です。でも、私が絵を描き始めたきっかけは、単純に描く事が「楽しかったから」だ。一生懸命一つの事に取り組み、僅かずつでも向上出来る事がただただ気持ち良かった。心地良かった。絵を続けることに、それ以上複雑な理由がいるものか。楽しい、だから続ける。それでいいじゃないか。
まあ、そんな感じで割とふっ切れたのでした。頑張る事に理由なんていらないんですよね。頑張る俺かっこいい、でいいじゃないか、と。才能なんてなくても、その姿をどこかで誰かが見ている。そして、他でもない自分自身が自分の努力を見ている。それでいい。
というわけで、めちゃくちゃ冗長になりましたがまた次回。
「滅鬼夜行」と「少女と霊銃の悪魔」
こんにちは。また一日遅れての定期更新です。
■キャラデザイン1
■滅鬼夜行
一枚目は、私があまり多用しないアジアンなテイストのものとなりました。キャラデザは基本としてピンタレストで見かけた資料を基に作っているのですが、その時々で時分にない引き出しが加わる為なかなか充実した方法だと思っております。今後の課題としては、単純にデザインを摸倣するのでなく、自らの世界観とコンセプトを加えて更に改良する、ということが出来るようになる事ですね。
尚一枚絵のほうは、建物の造型以外はそこそこと言う感じでしょうか。構図も攻められた気がします。
■キャラデザ2
■キャラデザ2-2 少女設定画
■キャラデザ2-3 悪魔と霊銃設定画
■少女と霊銃の悪魔
この一連の設定画は、そろそろ別のアプローチを試みてみようか、という趣旨の元、まずキャラの設定画を起こし、それを基に幾つかシチュエーションや世界観を交えながらコンセプトアートを描いてみよう、という試みでした。結果として私があまりキャラに愛着を持てなかったため、モチベーションが続かず一枚で打ち切りとなってしまいましたが…。
全体を通して言える事だと思うのですが、キャラの造型がいくら優れていても、背景や小物がザツだと説得力が瞬く間に落ちてしまうなと。割り切って、自分はキャラ絵描きだと思ってやっていくか、コンセプトアートの基礎をもう一度叩き込み直すか。現在は前者のほうに振り切れつつあるのですが、やはり背景有の絵も描きたいと言う気持ちは依然あります。
さて、前回寝込んでいた時、「僕だけが居ない街」始め、たくさんの漫画をとにかく動けない時間読みまくっていたのですが、薬が切れて感性が敏感になっていたからなのか、とにかく涙が溢れました。同時に、疑問に成る。なぜこれを描いた人たちは、私と同い年くらいでありながらここまでのものを作れるのだろう。逆に、私はなぜ三十を過ぎてからもこんな子どもの落書きのようなものを生み出し続ける事に拘っているんだ?
正直な話、私はつい最近まで自分の事を天才だと思っていました。いずれ世界に認められるほどの器を持っているだろう、と。ただ、先程の思いを抱いてから過去の自分をつらつらと反省して行くと、私はいつもいつも自分を無理やり鼓舞して、無理な努力を重ねて結果を出して来ただけで、決してそれは自分の本来の力では無い。努力をする姿を見ていない人が言う。「君は天才だから」「やっぱり才能のある人は」
私もいつの間にかその言葉を信じるようになり、自分は天才だと思い込むに至ったのだと、この歳になってようやく理解しました。
次に来たのは雪崩のような後悔と惨めさ。私はもっと早く気付くべきだった。凡夫である自分は凡夫としての一生を送って、並みの幸せを手にして満足しておくべきだったのだ。こんな天才たちがひしめく領域に、本来立ち入って良い人間ではないのだ。
現実的に、私は絵を描くようになってから毎日珈琲をがぶがぶ飲んで意識を覚醒させ、その無理がたたって現在の度々寝込む状態が形成されました。このままでは私は、天才どころか当たり前に手に出来た幸福すら失ってしまう。
それでも、絵を辞めたいと言う気持ちにはならないんですよね。それはきっと執着であり固執で在り、今までの自分の努力を反故にしたくないがゆえに。
ぶっちゃけ、解らなくなりました。どうすれば自分は「正しい」レールに乗れるのか。今の状態が良いのか悪いのか。これ以上自分は上手く成れるのかずっと底辺のままなのか。天才であるという錯誤は、ある意味自分に自信を与えてくれていた。道を示してくれていた。これからは自分の頭で考え、都度最適解を見つけて行かなければいけないのでしょう。それが大人としての自分に与えられた課題であるのかもしれません。
そんな事を言いつつ、また次回。